知識は力である。だが知識は狂気でもあり、これら地獄めいた存在に対抗するのは心弱き者であってはならない。
ネクロノミコンにおけるクトゥルー
―――アーカムシティ。
そこは世界の経済の中心。
大黄金時代にして大混乱時代にして大暗黒時代。
復活した錬金術や魔術、そして科学技術により発達したこの街にはありとあらゆる全てが存在する。
巨大な街を破壊する破壊ロボや、それを倒す純白の『正義の味方』などは日常茶飯事だ。
だが、そんな特異な都市でも普通の人間は存在する。
否、この都市のほとんどは普通の人間の普通の日常によって成り立っているのだ。
そして、今寄宿舎に帰ろうとして階段を歩いている体格のよい青年もその一人である。
彼の名はエイベル・キーン。
神学校に通っている神学生でちょっと正義感の強いだけのただの普通の生徒なはずだった。
そう、あの日、自らの部屋に『彼』が現れるまでは。
「………。」
普通通りにアパートへと帰ってきた彼は自らの部屋を見て空いた口が塞がらなかった。
そのベッドの上に、見知らぬ風代わりな一人の男性が横たわっていたからだ。
見知らぬ生地で作られたゆったりとしたローブに、何かの獣の皮で作られているサンダル。
そのローブの中には摩訶不思議な物……例えば五芳星が刻み込まれた石だったり、
何やら物騒な鋼の塊……平たく言えば銃らしき物がちらりと見えたりするのはきっと気のせいだろう。
だが、不思議な事だが、エイベルには彼から敵意や害意といった物を一切感じず、全く脅威に思えないのだ。
しかも、どこかで彼の顔を見た覚えすらある。
そう思いながら、エイベルは用心深くその男性を見ながら、少し催眠術をかけてみようかと思い立つ。
その瞬間、まるでそれを予想していたかのようにパチリと彼の瞳が開く。
じっと、真正面からエイベルを見詰める彼の瞳は何処か不可思議で、まるで宇宙の深遠を連想させた。
そんなことをぼんやりと思っているエイベルに対して、彼は口を開く。
「ふむ、君が俺のいない間にこの部屋を使っていた人か。名前は？」
「わ、私はエイベル。エイベル・キーンです。貴方は？」
「なるほど。エイベル君か。俺はアンドルー・フェランだ。よろしくな。少年。」
何のためらいもなくそう答えるフェラン。
アンドルー・フェラン。
その名前には聞き覚えがある。エイベルがこの部屋に来る前の住人の名前だ。
だが、彼は謎の失踪をとげ、一時期少しだけ話題になったが、
この混沌に満ちた都市ではその程度の記事などあっという間に見捨てられてしまう。
そう、誰も注意を払っていないはずだった。
目の前にいるエイベルを除いては。
やはり部屋を間借りしている身としては以前の住人は気になる。
それが謎の失踪を遂げたとなればなおさらだ。
そして、彼の容貌を見て思い出す。何処かで見たというのも当然だ。
顔を見知っているのも、新聞に顔写真が出たからである。
それを思い出し、エイベルの好奇心が猛然と彼が何をしていたのかを知りたがる。
「フェランさん。貴方は一体何処にいたんですか？」
「セラエノだ。」
セラエノ？聞いた事のない地名に対してエイベルは首をかしげる。
そんな彼にも関わらず、フェランは傍に立てかけてあるエイベルの衣服に目をつける。
「すまないが、この服を貸してもらえるかね。
君と俺はどうやら体格も似通っているようだしね。」
「え、ええ。別にかまいませんが。」
フェランも結構な体格で筋肉質だが、エイベルも似たような格好なので服のサイズ自体は問題ない。
それを聞いて一つ頷いたフェランは懐から小さなダイヤモンド塊を取り出す。
換金すれば服代は１２分に支払えるほどのダイヤだ。
それをエイベルの手のひらの中に入れると、てきぱきとエイベルの衣服を纏うとフェランは身を翻し、颯爽と部屋を立ち去ろうとする。
それを食い止めたのは、エイベルの必死の問いかけだ。
「待ってください。貴方は一体何をしようとしているんですか。
私では役にたたないんですか。」
「俺は極めて強大な邪悪と戦っているんだよ。キミには想像できないほどのね。」
その彼の言葉には何処か疲れと恐怖が感じられた。
まるで人間では太刀打ちできない強大な存在に、永遠に戦い続ける人間のように。
だが、それ以上に、それに立ち向かわなければならない使命と決意が彼の瞳を見れば明らかだ。
まるでどうしようもないほどの圧倒的な存在に怯え、それでも立ち向かおうとする戦士のように。
「もう一度だけ言おう。キミは知らない方がいい、そっちの方が幸せになれるんだ。」
だが、それで引っ込むほどエイベルもおとなしい性質ではない。 元々正義感が強い青年なのだ。
邪悪と戦うと聞いて黙ってはいられない。
猛然と彼はフェランへと食ってかかる。
「いいえ、知らなければなりません。何の知識もなしに邪悪と戦う事はできません。」
その瞬間、彼の胸にどうしても彼と行きたい、例え催眠術を使ってでも、という考えだけが彼の頭の中を支配した。
突発的に、彼はフェランの瞳を覗き込み、催眠術を使おうと両手を挙げる。
瞬間、世界が一変した。
現実感が全くないからこれは多分夢なのだと思う。そう思いたい。
何処かの夜の街を歩いているフェラン。
其処は見慣れた都市、アーカムシティからインスマウス沖へとバスを乗りついて向う彼の姿。
以前の陰気なインスマウスとは違い、今のインスマウスでは覇道鋼造が大規模な土地開発を行い、レジャー地へと変貌している。
だが、彼が向うのは華やかなレジャー施設や綺麗な海岸ではなく、その影とも言える部分。
昔からのインスマウスの住人が住む荒廃した居住地だった。
華やかさなど欠片もなく、多くの人間の放つ陽の気によって祓われたはずの呪われた地獄じみた雰囲気を色濃く漂わせていた。
廃墟じみた雰囲気を漂わせる街中を、フェランは悠然と歩いていく。
そして、一つの精錬所らしき建物の前に立ち止まる。何故かエイベルは気づく。
そこは何か奇妙な雰囲気、そう、まるで何かを崇め奉っているような雰囲気が感じ取られた。
だが、それはまっとうな神ではあるまい。
まっとうな神の崇め奉る場所ならばこんなに穢れ果てて汚れ果てた雰囲気などはない。
そして、エイベルは気づいた。
彼を見張る一人の人影があったということを。
その顔は両生類じみた容貌に魚のような深い海の匂いを漂わせた奇妙な人間だ。
エイベルはしらないが、この男こそインスマウスの住人である。
その身の毛もよだつ尾行者はフェランがインスマウスが離れるまでやめはしなかった……。
そこで、彼ははっと目を覚まし、現実世界へと戻ってきた。
「気がついたかね。エイベルくん。
キミが見たものは全て事実だ。キミの催眠術を逆用して忠告してみたんだよ。」
あまりに超自然的な恐怖を目の前にして、呆然とするエイベル。
いかに正義感が強いからといっても、実際にその脅威を目の前にしてそれを発揮できるのかは別問題だ。
あまりに異質な概念を目の前にした人間は徹底的にそれを拒否するか、やむを得ずしぶしぶそれを受け入れるかの二つに分かれる。
だが、いきなりの出来事で混乱している彼はまだそれを受け入れる事はできない。
フェランは懐から異様な文様や刻印が刻み込まれた鋼鉄の銃―――ベレッタＭ９３Ｒを取り出す。
ベレッタＭ９３Ｒ。元々、対テロ用のマシンピストルとして開発されたこの銃は、
最もスタンダードな銃であるベレッタＭ９２をモチーフにしているので、極めて扱いやすくなおかつ強力な銃である。
ロングバレル化、ロングマガジン化され、三点バーストやセミオート機能があるこの銃は強力な火力を誇る。
だが、この銃は通常のベレッタではなく、漆黒をベースとして、その銃身に何かが絡みつくような黄色の奇妙な紋章や古風な象眼細工などが刻み込まれているのだ。
一瞬警戒するエイベルだったが、フェランはくるりと手の中でベレッタを回転させると、銃のクリップの部分をエイベルに差し出す。
「それと、キミには一応これを渡しておこう。
『彼方より来たりて饗宴を張る者』という名の銃だ。
念のためだが、護身には最適だ。」
いかにも禍々しさ満載といった感じの異様な刻印や黄色の文様が刻み込まれた異界の雰囲気を持ったベレッタ。
一番目につくのはグリップの部分に刻み込まれた異界の文様だ。
エイベルは知らなかったが、それこそハスターの化身の印、『黄の印』である。
それがフェランの手からエイベルの手へと直接手渡される。
ずしり、と重い。
ソレは物質的な重さだけではなく、忌々しいモノを手にしたという精神的な重みだ。
それを手渡すと、くるりと、フェランはエイベルに背を向ける。
「では、失礼する。……まあ、二度と会わない事を祈ってはいるが。」
それだけをいうと、彼は何のためらいもなく、エイベルの部屋から歩き去った。
―――そして謎を残したままフェランが立ち去った後、エイベルは彼の事を調べてもようと決断した。
あれだけ不可思議な登場をされて、謎めいた事を言われて大人しくしているほど、彼は謙虚な性格はしていない。
ヒントはいくつか存在する。まずは彼のいたとされる場所。『セラエノ』という土地だ。
調べるのは簡単だ、図書館にでもいってみて調べてみればいい。
だが、そこで彼は「セラエノ」という地名を調べてみて驚愕した。
それは地球上の土地ではない。
プレアデス星団に輝く星々の名前だ。
次はフェランの失踪に関しての新聞のレポートを集め始めた。
だが、それはさらなる困惑をエイベルに齎した。
当時、フェランはラバン・シュリュスベリイ博士という博士の元で仕事をしており、その後、謎の失踪をとげたという事だけだ。
その後も色々と調べてみたが芳しい結果はまるで上げられない。
こうしていても埒が明かない。
そう決心した彼は勇敢ではあるが、ある意味火の中に突っ込む事を決意した。
そう―――フェランが行ったあの地。インスマウスに行く事である。
インスマウスに行く事自体は難しくなかった。
今やインスマウスは有名なレジャー地になっているのだから。
だが、エイベルが行くべき場所は輝く海でも太陽溢れる砂浜でもない。
彼は知らないが、そこは呪われた土地。
忌まわしき怪物との混血達が潜む場所なのだから。
思わず、彼は胸元に入れてあったベレッタＭ９３Ｒを改造した『彼方より来たりて饗宴を張るもの』に手を当てる。
そこから放たれる雰囲気も決して清浄とはいえない……というか禍々しい雰囲気だったが、
その雰囲気はこの地が放つ雰囲気とは決して受け入れられないモノ、むしろ跳ね除けるモノだ。
今の彼にとってはこの銃こそがお守りにも等しい。
そんな風に胸に手を当てながらさらに奥地へと踏み込む彼。
だが、彼は気づいていなかった。
そんなエイベルを見張る無数の異形の瞳があるということを。
「……ここか。」
そして、ようやくフェランは夢のなかで見た精錬所へとたどり着いた。
そこは彼は知らないが、クトゥルー教団の下部組織《ダゴン秘密結社》の根拠地ともいえる場所である。
ここまで彼が容易く入り込めたのは、その見張っている者達が、根拠地で誰にも知られないように始末するつもりに他ならない。
それを証明するように、あちこちから一人、また一人と精錬所の前に立つ彼を取り囲むように異形の人間が姿を現す。
「あ、貴方たちは……？」
それはあまりに異様な人間の姿だった。
瞳は飛び出し、鼻は平べったく、耳はほとんどない何処となく両生類を思わす容貌。
彼らは、その瞳に明らかな敵意を宿しながらエイベルを睨み付けながら少しづつ輪を狭めていく。
その雰囲気には最早敵意と害意以外ありえない。
どんな平和主義者であろうと、こんな攻撃的な雰囲気で平穏でいられる訳はない。
ましてや彼らの手にはナイフやらよくよく見ると鉤爪のようなモノが生えているようにも見える。
そんな者達が普通の人間であるはずはない。
思わず、彼は自らを護るために、懐から銃を取り出して住人たちに突きつける。
「く、来るなっ！！」
そういいながら、彼が無意識に懐から取り出したのはフェランから手渡された銃。
『彼方より来たりて饗宴を張る者』である。
それを目にした瞬間、ザザ、と深き者どもの包囲陣が広がった気がする。
恐らくは、この銃、正確に言うとこの銃に込められた何らかの力に恐れを抱いているのにほぼ間違いない。
彼とて身を護るために銃の訓練を受けた事はある。
だが、実際に動く物を撃った事など、アーカムシティの人間であろうとそうそうない。
震える手で銃口をインスマウスの住人たちに突きつけるエイベル。
そして、その銃に恐れをなす住人たち。
だが、そんな硬直状態は長くは続かない。
「ギ、ギギギ―――！！」
「――――っ！！」
びりびりと己の身にまとう衣服を破き、奇声を上げながら襲い掛かるインスマウスの住人。
否、それは最早年を得て、深きものへと変貌したもの達である。
その体には明らかに緑色の鱗が生え、鋭い爪が生えた人間とは思えないものだ。
その爪には毒があり、硬い鱗と強靭な筋肉に護られたその肉体は小火器程度では通用しない。
だが、そんな事を考える前に、エイベルは襲い掛かってきた深きものどもに対して引き金を引く。
何かが爆発する音と共に音速で放たれる弾丸。
そのあまりの反動の大きさにエイベルの両手も大きく跳ね上がる。
そして、その放たれた弾丸は、音速で大気を引き裂き、深きものへとの頭部へと突き刺さる。
次の瞬間、深きものの内部にめり込んだ弾丸が光を放ち、爆裂し、深きものの頭部をほぼ半分吹き飛ばす。
普通、深き者ども、そしてその血を受け継ぐ者は不老でしかも生命力が極めて強い。
たかが人間の小火器の威力程度、その鱗で下手をすれば弾いてしまうほどであり、たかが弾丸一発では到底命を奪う事は出来ない。
だが、この銃は例外の一つだ。
この銃は彼らが崇めるクトゥルーと敵対する旧支配者、ハスターの化身の力が宿っているのだ。
『彼方より来たりて饗宴を張るもの』
それは『黄衣の王』に次ぐハスターの化身の名前であり、
その化身の名を冠するこの銃は強力な呪法兵装、魔術的な兵器なのである。
弾丸の内部にはハスターの神気が込められたイブン・ガズイの粉薬が内臓されており、
『彼方より来たりて饗宴を張るもの』のライフリングによりさらなるハスターの神気が付与される。
そして、そのハスターの神気が込められた弾丸は、敵対する水属性の敵の内部に入り込んだ瞬間、内部で炸裂し、対象を内部から破壊する。
つまり、一種の魔術的な炸裂弾である。
当然、頭部を吹き飛ばされた深きものはどう、と地面に倒れ伏し、毒々しい緑色の血と脳漿を撒き散らしながら息絶える。
それに対して、エイベルの周囲を取り囲んでいた深きものどもの敵意はさらに高まる。
最早ここまでか、とエイベルが覚悟を決めて硬く瞳を閉じた時。
「……？」
ひょう、と一陣の風が吹いた。
そう、それはただの風ではない。それこそ、ハスターの神気が篭った魔風。
ハスターの眷属が登場する時に放たれる妖風である。
緩やかな霊風はやがて勢いを増し、轟、とさらに強く吹き荒れる。
目を開けていられないほどの突風。
そして、彼らの上空に存在する『何か』の存在。
それは猛烈な風を放ち、彼らの上空で低空でホバリングを行っているのだ。
その存在から、一人の人間が飛び降り、ちょうどエイベルと深きものどもの中間に立ちふさがる。
「やれやれ、キミは本当に後先を考えないな。
全く人間の好奇心というのは厄介なものだ。」
そういいながら、エイベルにその逞しい背中を見せて、敢然と深きものどもに立ち向かうのは、
彼の部屋に現れたあの奇妙な服を纏った一人の男。
その男を見て、深きものどもはざざ、と警戒したかのように円陣を広げる。
「あ……アンどるー……ふぇラン……！！」
「ほう、俺の名前を知ってくれてるとは光栄だ。
たかが駆け出しの魔術師にしかすぎないのにね。」
にやり、と徒手空拳のままフェランは不敵に微笑み、
拳にした左手を顎の下に、右手を敵に突き出す典型的なボクシングスタイルをとる。
ひゅお、と彼の体から霊風が吹き、彼のコートをはためかせる。
そして彼の腕や拳に無数の文字列が巻き起こり、ふぉんと不可思議な光が宿り始める。
それを見て、さらに深きものどもは後ずさりを行う。
彼の拳には、彼ら深きものどもの対立神性ハスターの神気がほんの少しだけ宿っているのだ。
その神気は彼らにとって天敵にも等しい。
恐れと警戒のため輪を広げた彼らだったが、敵意は欠片も薄れない。
「――――！！」
形容しがたい異質な叫び声を上げながら、数体の深きものどもが爪を振り上げてフェランへと襲い掛かる。
鉤爪を掻い潜り、フェランは魔力の篭った拳の右フックが深きもののわき腹に叩き込む。
その拳は深きものの鱗や筋肉を突き破り、体内に深々と突き刺さる。
口から緑色の体液と、傷口から内臓をブチ撒きなら、倒れようとする深きものの顔面にさらにフェランの左ストレートが炸裂する。
さらに、流れるようにくるりと回転し、背後から迫り来る深きものを射程に捉えると、
左のジャブで牽制し、右の上からの打ち下ろしチョッピングライトで頭部を破壊する。
その闘争をエイベルは呆然と見守るしかなかった。
これぞ超自然の闘争。人類とＣＣＤとのお互いの存続をかけた闘争だ。
だが、流石に数が違いすぎる。
それに戦力になるのはフェラン一人。
エイベルを庇いながらの戦闘は流石に不利すぎる。
そう判断したフェランは逃走を選択する。
「エイベル！これを飲むんだ！」
そういいながら、フェランは懐から黄金色をした液体が入ったアンプルを投げ渡す。
不思議に思いながらも、エイベルは大人しくそのアンプルの口を開き、それを口にする。
「――――！！」
瞬間、世界の全てが変貌する。
五感が激しく研ぎ澄まされ、普段は感じられないはずの霊気までもがしっかりと感じられる。
それだけではなく、自分の肉体が霊的な空間、アストラル界へと移行した事を知る。
この黄金の液体こそが、『黄金の蜂蜜酒』
ハイアクヘーに搭乗する際に必須な魔術的ドラッグである。
そして、フェランは奇妙な石の笛らしき物を取り出すと、次の瞬間、呪文と笛の音が周囲に木霊する。
「イア！イア！ハスター！ ハスター クフアヤク ブルグトン
ブルクトム ブグトラグルン ブルグトム アイ！ アイ！ ハスター！」
その呪文を唱えた瞬間、再び、轟、と猛烈な霊風が吹き荒れる。
猛烈な風に恐れを抱いたように、深きものどもはわっとエイベル達から後ずさる。
まるでハリアーのようにホバリングしながら、垂直にゆっくりと風を撒き散らしながら着陸する『それ』は異様な物体だった。
それは魔と機械との融合体、まるで戦闘機のような鋭角なデザインの天翔る物体。
魔翼機バイアクヘー。
邪神ハスターに使える下級眷族であり、星間宇宙すらも飛び越える能力を持つ存在である。
あまりに常識外の異質な存在を続けて目の前にして、さすがにエイベルも呆然とする。
「エイベルくん！早く乗りたまえ！！」
ひょい、とフェランは着陸したバイアクヘーの背中に乗ると、同じように恐る恐るといった具合にエイベルもバイアクヘーに乗る。
瞬間、猛烈な風を巻き上げながら、バイアクヘーは垂直に上昇し、瞬時に超音速の世界へと突入しながら、その場を離脱する。
本来、人間の体は超音速の世界に耐えられるはずもない。
だが、彼らが口にした黄金の蜂蜜酒は超音速や星間の旅ですらも人体を保護する。
目を閉じて必死に風圧に耐えるエイベル。
しばらくすると、轟音も途絶え、ふわりと何処かにバイアクヘーが着陸するのが感じられる。
恐る恐る目を開けてみたエイベルの視界に入ったのは、アーカムシティからしばらく離れた森の中だった。
ほっとしながら、エイベルは超自然的な存在から降りて地面に脚をつけると、
瞬時に来たときと同じように暴風と轟音を撒き散らしながら、バイアクヘーはその場を飛び去る。
急に戻ってくる静けさ。
そこは闇に覆われてはいるが、ごくごく普通の何てことはない森だ。
そのあまりの普通さに、エイベルはようやくほっと一息つく。
まるでＢ級ホラーのような半魚人に襲われたり、機械のような生物に跨って空を飛翔したり、あまりに常識からかけ離れた出来事が多すぎる。
そんなエイベルに対して、フェランは真剣な表情で、何処か哀れみを感じさせる色を瞳に宿しながら、問いかける。
「エイベルくん、キミはもう後戻りはできない。俺と同じようにね。
キミに残された道は、何もかも忘れて穏やかに暮らすか―――それとも、戦うかだ。
キミは、どちらを選ぶ？」
「フェランさん、私は巨大な邪悪が存在すると知ってなお平然と暮らしているほど図太くはない。
赦されざる邪悪が存在するならば、私には邪悪と戦う責任と義務がある。」
「……キミは１８歳だね。エイベル。その決心を変えないとキミには破滅が訪れるかもしれないんだぞ。」
それは数年の間だけだが、ＣＣＤとの戦いを得て来た者だけがいえる台詞。
自分はラバン博士のような超人ではない。
いずれはＣＣＤによって無残に貪り食われる事も覚悟している。
この世界に奇跡なんてない。
人類は邪悪に貪る喰らわれるだけの贄でしかない。
だがそれでも―――戦う事を、放棄する事だけはできない。
それがフェランの決意と覚悟。ＣＣＤと戦うための覚悟だ。
だが、そんな言葉にも怯む事無く、エイベルは決意に満ちた瞳をし、頷く。
「覚悟の上です。」
その言葉には、どんなに脅されようと戦い抜きたいという硬い決意があった。
人類の一人として、ああいう邪悪な人類に害なす存在を放置はできない。
彼の瞳にはそんな決意が漲っていた。
それを見て、フェランは疲れたように、はあ、と一つため息をつく。
「……『異界の敵との長く破滅的な戦いに人類が敗北するようなことがあろうとも、
人類の存在と苦闘の物語が無駄に語られたことにはなるまい─―』か、
たしかC.A.スミスだったかな。
いいだろう、エイベルくん。それでは、俺についてくるといい。」
軽やかに身を翻すと、フェランは深い森の中をすたすたと何の障害もないように歩き出す。
それを見て、慌ててエイベルはフェランの後を追いながら疑問を投げかける。
「ど、何処に行くんですか？」
「決まっているだろう。俺たちの本拠地、ミスカトニック大学だ。」
―――ミスカトニック大学。
アーカムシティの中心に位置し、その中でももっとも高い建築物である時計塔を所有しているこの大学はただの大学ではない。
その実体は世界の神秘を知り、世界を変革させる魔術を学び取る魔術師達を養成する『隠秘学科』が存在したり
ネクロノミコンや貴重な禁断の知識の塊である魔導書を所有する『秘密図書館』を所有したりする魔術師にとっての本拠地ともいえる場所なのである。
フェランは何のためらいもなくミスカトニック大学の図書館へと歩いていく。
それに続くように恐る恐るという感じで着いていくエイベル。
周囲の人間は誰もフェランが大学に入り込んでいる事に不審を感じない。 恐らくは彼は何度も大学に通っているのだろう。
彼は迷う事なしに図書館にたどり着くと、図書館副長のランファー博士という人物に案内されて、一人の老人のいる部屋へと案内される。
その老齢の男性は好々爺としながらも老いを微塵も感じさせぬ雰囲気をもっていた。
穏和でありながらもその瞳の中に鋭い光を宿した老人は、二人を見ると微笑みをもって出迎える。
「久しぶりじゃな。フェラン。
そちらの方は始めまして、かな。わしがミスカトニック図書館の館長、ヘンリー・アーミティッジじゃよ。」
「あ、は、はい。エイベル・キーンと言います、よろしくお願いします。」
「うむ、よろしくな。ではこちらへ。」
そういいながら、アーミティッジと名乗った老人は、身を翻すと、図書館のさらの奥へと向う。
そして、フェランら二人も同じようにアーミティッジ博士の後ろについていく。
普通の図書館よりさらに奥。
壁にしか見えない部分にアーミティッジは何かのキーワードを口にすると、
壁に魔術文字に浮かび上がり、魔術的な封印が開封される。
ゴゴゴと壁がスライドし、その中には下に向う階段が姿を現し、三人はその中へと踏み込んでいく。
その中は、数十もの魔力障壁、頑丈な壁、そして魔術的トラップにより防護された特別な空間。
それらを全てアーミティッジ博士は潜り抜けていき、たどり着いた果ては、大量の本が保持されていた図書館。
だが、そこはただの本ではなく、異界と狂気の知識が書かれ強大な力を持つ、危険な魔導書なのだ。
―――ミスカトニック秘密図書館。
ここは世界各地から集められた極めて危険な魔導書が封印されているのだ。
強力な魔導書は、邪悪な魔術師に使われると世界全体を危険に巻き込みかねない危険な代物なのだ。
しかも、異界の知識が秘められた魔導書は下手をすればそれ単体だけでも異様な事件を発生させる。
そんな代物をその辺に放置する事などできない。
それら危険な代物を的確に封印・管理するのが、ここミスカトニック秘密図書館である。
多大な魔導書の影響により、膨大な負の気配に支配された図書館に入り込んだフェランとエイベルは、
アーミティッジ博士に導かれるままに、図書館のカウンター内の椅子に腰掛ける。
「驚いたかね？ここは通常の図書館ではない。ミスカトニック秘密図書館。
禁じられた背徳と邪悪の知識を封印・保管する場所じゃよ。」
「そ、そんな所に入っていいんですか……？」
恐る恐るといった感じで、エイベルはそう話しかける。
この図書館の異界と闇の雰囲気に圧倒されているのだ。
あの銃を使いこなした事といい、この図書館の雰囲気を感じ取る事ができる事といい、エイベルには確実に魔術の素質がある。
そう確信したアーミティッジとフェランは、二人揃って満足げに頷く。
そして、自らもイスに腰掛けたアーミティッジは、今度はフェランに向って問いかける。
「所で、博士は元気かね？」
「ええ、元気でやっていますよ。今頃セラエノで色々調べているんじゃないんですかね。
『今回はキミが何とかしてみなさい。いざという時は私が駆けつけよう』だそうです。
駆け出しの魔術師が引き受けるには少し厄介すぎる怪異ではないかと思うんですけれど。」
そういいながら、フェランは苦笑いをしながら少し肩を竦める。
エイベルは初めて聞くが、どうやら彼にも師匠といえる人間がいるらしい。
どんな人間かは気になるが、今はそれ所ではない。
「フ、フェランさん。今はそれより……。」
「ああ、解ってる。全く、せっかちなのは嫌われるぞ。
それで、ここに来た理由なのですが、博士はインスマウスの状況はご存知ですか？」
「ふむ、一応はな。あそこは一度デルタグリーンの秘密諜報員によって壊滅したはずだが。」
デルタグリーン。それは旧支配者の脅威から人類を防衛することを目的とする抗神組織である。
デルタグリーンとは通称であり、本来は超常現象を研究するために設立された米国海軍情報部P課という。
政府直属の特殊機関であり、通常の探索者とは違い、作戦の際には非情な行為も平然と行わなければならない。
いわば正気度ではなく、己の人間性を削り任務を遂行する組織といえよう。
その中心的人物は、ジョゼフ＝キャンプ博士という博士であり、ラバン＝シュリュズベリイ博士やハロルド＝コープランド教授の著作を参考にして、
深きものどもに関する調査が進められ、１９２８年にインスマウスの深きものどもを一掃し、イハ・ントレイに攻撃を仕掛けたのも彼らである。
現在ではフィリピンの深きものどもの居住区を攻撃したり、ナチスＳＳの秘密機関、邪神の力を追い求め弄ぶカロテキアという組織と抗争を繰り広げているとか。
「それが、蘇ってきているのだよ。政府には知られない程度に、こっそりとな。
デルタグリーンはフィリピンやカテロキアとの抗争に力を入れておる。
恐らくはインスマウスまで手が回らんのだろうな。」
博士の顔は深刻だ。彼もインスマウスのＣＣＤの復活を憂いているのだろう。
だが、アーミティッジ博士は秘密図書館と特殊資料室の守護をしなければならないので、ミスカトニック大学から動く事はできない。
ここに封印されている邪神のアーティファクトや魔導書は下手をすれば世界崩壊に近づくかもしれないのだ。
その封印を放置するわけには行かない。
だが、何の魔術の心得もなく、ＣＣＤについての知識もない一般人を派遣する訳にはいかない。
例え特殊部隊であろうとも、人類より遥かに巨大な力を誇るＣＣＤの前には容易く壊滅させられてしまうのだろう。
そんな風に頭を痛めていた所にやってきたのが、このフェランだった。
さすがはラバン・シュリュズベリイ博士。
セラエノに存在していてもＣＣＤの活動を察知したのだろう。
「解りました。博士。インスマウスは俺たちで何とかします。
博士は、バックアップを頼めますか？」
「うむ、任せておくがいい。」
「はい、ですが今回の件で向こうも多少警戒しているだろうだから、少し絡め手でいきたいと思います。
その前に、だ。エイベルくん。キミを魔術師に……いや、邪神狩人に仕上げなくてはならない。」
「な、何ですか、敵も警戒してもう一刻の猶予も……。」
そのエイベルの言葉はフェランの顔を見た瞬間飲み込まれる。
彼の顔は全く反論を許さない厳しい物だったからだ。
おそらく、いや確実に彼の言うことは正しいのだろう。
「ただの人間では邪神や奉仕眷族相手では死ぬだけだ。
魔に対抗できるのは魔のみ。彼らと戦うのならば、キミも魔術師にならなくてはならない。
なに、向こうも何かを呼び出そうとしても、星辰の位置はまだ不完全だ。
まだ多少の時間はある。それまでにキミをきちんと仕上げなくてはいけないな。
協力していただけますか？アーミティッジ博士？」
「ふむ。この老骨でよければな。」
そうして、彼らの修行が始まった。
魔術とは外道の知識。異界の神々から力を借り受け、現実を変換させる知識だ。
宇宙の全てには『式』がある。
その『式』より解答を求める事で世界の有り様を変革する事ができる。
その根源となり、力の源となる存在が『字祷子（アザトース）』
魔術師とは『字祷子（アザトース）』を解析、収集、演算、構成する存在なのだ。
そう、魔術とは世界の法則を知り、さらなる高位の存在を目指す事に意味があるのだ。
そうして、エイベルは魔術師になるために基礎を教え込まれた。
だが、単なる知識だけでは魔術は成し得ない。それ以上に必要なことは己の霊的位階を高める事だ。
そして、そのためには実戦を積むしかない。
アーミティッジ博士には魔術理論を。
フェランには基礎的な戦闘技術を叩き込まれる。
やはり邪神や奉仕眷族と戦うためには魔術のみならず、基本的な戦闘技術もないと話にならない。
その中で彼が選んだのは銃だった。
やはり今まで体を鍛えた事がない以上、必然的に筋力で劣ってしまう事は否めない。
それをカバーするにはやはり武器が必要だ。
ボクシングを習い、格闘による肉弾戦を得意とするフェランに対して、エイベルは銃火器によって遠距離から敵を撃つ事を選択した。
その修行の中、ようやくエイベルは魔術師としての最初の位階《０＝０新参入者（ニオファイト）》を得た。
「ようやくここまでになれたようだな。
まあ、正確な魔術は行使できないが、付け焼刃だから仕方あるまい。
念のためにこれを持っていこう。キミはこちらを。」
そういいながら、フェランが差し出したのは比較的新しい一冊の本だった。
だが、通常の本とは異なり、僅かだが異様な妖気を感じる。
そう、まるでホルスターにある『彼方より来たりて饗宴を張る者』と同等な気を。
そして、その本には表面にこう書かれていた。
「『ルルイエ異本を基にした後期原始人の神話の型の研究』……？」
「それもれっきとした魔導書だよ。
まあ、魔導書というよりはラバン博士が執筆した研究書という方が正しいかもしれないがね。
まあ、魔導書としては微々たる力しかないが、私たちにとっては相性が凄くいい。
持っているといい、魔術師は魔導書がないと力は発揮できないからね。」
そう、いかに優れた魔術師といっても魔導書がなければ力は発揮できない。
逆に言えば、魔導書さえあれば魔術師は力を発揮できるのだ。
最も、『ルルイエ異本を基にした後期原始人の神話の型の研究』はラバン・シュリュズベリイ博士が直筆で書いた物で極めて新しいので力は微々たる物だ。
それでもないよりはマシだろう。
それに対してフェランの手には『ネクロノミコンにおけるクトゥルー』という題名の不完全な本が握られている。
これも同様に新しく、しかも未完成のため大した力は期待できないが、ないよりはマシだろう。
「よし、ではいくぞ。エイベルくん。今度こそ、我ら人類とＣＣＤとの闘争の始まりだ。」
そして、アーミティッジ博士に頼んでいくつかの小物を用意すると、彼ら二人はインスマウス行きのバスへと乗りこんでいった。
そして、しばらく後、インスマウスの地へと降り立つ二人の姿があった。
だが、その姿は普段の二人の姿とはまったく異質である。
平べったい鼻に飛び出した瞳。その姿はどう見てもインスマウスの住人そのものである。
これぞ、覇道財閥とミスカトニック大学が協力して作り上げた変装用の特殊マスクである。
その変装用のマスクを被った彼らは、対して警戒もされずインスマウスの住人たちの居住区へと入り込む。
さすがに新顔の彼らは注目を集めるが、以前ほどの敵意は感じられない。
やはりこのインスマウス顔のマスクが大きいのだろう。
彼らは散歩をする振りをしながら、あの例の精錬所をこっそりと覗き込んだりもしてみたが、その中にはもはやほとんど空と化していた。
「ふむ、思った通りか。知られて拠点を移動したようだな。」
「どうしますか？フェランさん。」
少し焦ったようにエイベルは呟く。
それはそうだ。知らぬとは言え、己のミスでこうなってしまったのだ。
星辰の位置も正しい位置に入りつつある。
このままではダゴン秘密結社が呼び出そうとしている「もの」が召喚されてしまうかもしれない。
だが、それにも関わらず、フェランは口元に不敵な笑みを浮かべる。
「なに、それならそれで検討はついている。
恐らくは近くの小さな小島に神殿を祭ってあるのだろう。
今夜だ、おそらく今夜儀式は行われる。その時にインマウスの住人たちの動きをたどればいい。」
敢然と、決意を瞳に宿し、フェランは一つ呟いた。
「……それと、後一つ確かめておきたい事もある。君もついてくれるがいい。エイベルくん。」
そういいながら、フェランは不自然にならないように気をつけながら、その場を離れる。
どこにいくのか、とエイベルは不審に思うがそれでも大人しくフェランの後ろへとついていく。
行く先は、インスマウスのさらに外れ、森の中に存在する大きな館だ。
いかにも廃墟然としたその館には、魔術師である二人にとっては慣れ親しんだ闇の匂いと呼べるものが立ち込めていた。
フェランは館には近寄らず、館が見下ろせる小高い丘の上に陣取ると、
腹這いになり、懐から準備していた米軍の暗視スコープＡＮＰ／ＰＶＳ−４を取り出し、館を監視する。
これならば、僅かな光さえあれば数百メートルの範囲を監視できる。
下手をすれば一晩中監視する必要があるかもしれない、と覚悟していたフェランだったが、機会はすぐに訪れた。
その古びた館から一人の男性が車に乗り込むのがはっきりと暗視スコープにも確認できた。
それは一応特注のスーツをまとってはいるが、とても普通の人間には見えない存在だった、
インスマウスの住人よりさらに異形な容貌。
鼻と耳は完全になく、完全に蛙というか半魚人そのもの。
歩き方も普通の人間ではなく、まるで蛙のようにぴょこぴょこ歩いていく。
彼は、油断なく左右を見渡すと、意外に機敏な動きで車に乗り込んでいく。
「あれは……？」
「ヤツこそがエイハブ・マーシュ。
インスマウスの住人とイハ・ントレイの深きものどもとさらなる接触をもたせ、
インスマウスの闇を復活させようとする、ダゴン秘密結社の首領。
それこそがヤツの正体だ。
……ヤツも動き出したという事は、やはり今夜が星辰の正しい位置、か。
どうやら一刻の猶予もなさそうだ。」
エイハブを確認した以上、もうココには用がないと言わんばかりに、足早にフェランはこの場から立ち去っていく。
正しい星辰揃う今夜こそが、彼ら、邪神狩人と深きものどもとの決戦となるだろう。
その決心を胸に、フェランはインスマウスの街へと歩き去っていった。
―――そして、深夜。ちょうど零時。
インスマウスの住人、否、最早深き者たちと化した彼らは一斉に祈祷をあげながら家から出て海岸へと向う。
最早人間というよりは半魚人、いや、人間サイズの巨大蛙とも表現する彼らは最早人間ではない。
衣服を身につけず、蛙じみた顔にぬるぬるした皮膚と水掻きのある手足。
彼らはそのまま海岸へと至り、何のためらいもなく海の中へと入っていく。
彼らは陸棲生物というよりはもはや海棲生物へと変貌している。
陸上よりも海へと適応した彼らにとっては海を泳ぐ事は陸を歩く事と等しい。
そして、一列になって彼らが向う先は近くの小島。フェランの言った通りだ。
「よし、あそこだな。」
そう呟いたのははるか上空、魔翼機バイアクヘーの上に立つインスマウスの住人の変装マスクを被ったフェランだ。
隣には同じようなマスクを被ったエイベルの姿。
彼らは深きものどもが向う小島を確認すると、そのままバイアクヘーを駆って小島の反対側へと着陸する。
あまり目立ちすぎてさらなる警戒をさせるのは避けたい。
そのまま着陸した彼らは、徒歩で歩きながら、深きもの達が向う先をさらに確認する。
そこは異形の形をした歪な遺跡。
見るからに異様な文様や見ただけで狂ってしまうような刻印。
そして、駆け出し魔術師でも解る強大な水妖の気。
まちがいない。こここそ、彼ら深きものども、ダゴン秘密結社の拠点である。
できるだけ床を見て、壁に刻まれた異質な壁画は目に入れないように、洞窟に沿って進む彼ら。
空気自体に強力な水の妖気が漂ってくる。
やがて、洞窟の奥地に至った彼らは巨大な大空洞に突き当たる。
そこは巨大な祭壇だった。
巨大な祭壇に捧げられるようにする人間の死体。
そして、祭壇に祈りを捧げる無数の深きものたち。
彼らの祈りの先、祭壇の前には、巨大な石の像が存在した。
大よそ５０ｍにも渡るほどの巨大な石の像。
それはまるで巨大フナムシのような姿をした異形にして異質な神の姿。
―――海神ダゴン。
クトゥルーに使える眷属であり、深きものどもの首領。
下級とはいえ、れっきとした神そのものである。
今は岩に変えられて封印されているが、その漏れ出す神気はやはり並のものではない。
そのダゴンの神像に向って一斉に祝詞を唱え始める深きものども。
それに呼応するように、ずずず、と振動を始めるダゴンの石像。
石像には巨大な鎖が巻き付いており、中心には巨大な円形の石に五芳星……《旧き印（エルダーサイン）》が存在する。
この旧き印こそがこのダゴンを封じた封印だ。
だが、その旧き印は罅入り、深きものどもの詠唱に呼応して罅割れがひどくなり、ついにはぱきん、と石自体が破壊される。
星辰の位置が揃った事により、封印自体が無効化されてしまったのだ。
これは拙い。封印が解けたという事は、いつ復活してもおかしくない状態にある。
完全な状態で復活したダゴンならば、少なくともインスマウスを壊滅状態にできてもおかしくない。
そう決心した二人は、儀式を阻止するために祭壇に向って駆け出すと、顔を覆い隠していたマスクを脱ぎ捨てる。
「――――！！」
神の復活のための神聖な儀式に乱入してきた不遜な人間に、深きものどもは少しパニックに陥るが、
すぐに冷静さを取り戻して、フェランらを祭壇に近づけないように、彼ら自身が壁になり、フェランらを妨害する。
「邪魔だ！！」
目の前の深きものに対して、拳に魔力の光を宿したフェランは深きものの横顔を殴り飛ばす。
口から汚れた緑色の体液を吐き出しながら、深きものの鱗に覆われた顔の半分が吹き飛ばされる。
「さすがに俺はラバン博士のような《大達人（アテプダス・メジャー》じゃない
ただの《２＝９理論者（セオリカス）》でしかないがね……あいにくと防御系と肉弾戦だけは得意でね。
コイツにだけは自信がある。」
ちなみに《２＝９理論者（セオリカス）》とは魔術師の到達した段階を現す称号であり、
その中でも《０＝０新参入者（ニオファイト）》《１＝１０熱心者（ジェレーター）》に次ぐ階位であり、
いうなれば魔術師として下の上、ようやく初心者が終わる頃、中級者の入り口に立ったか立たないかぐらいのランクである。
位階としては大した事はないが、魔術を学んだ人間でこの速度でこの位階に到達するのは早い方だといえよう。
其の点でも、彼には素質があるといったラバン博士の言葉は真実である。
何の魔術理論もない。
あれは単に拳に魔力を乗せて叩きつけるだけのごくシンプルな攻撃でしかない。
それはボクシングという人類が積み上げてきた格闘術だ。
だが、流石に彼とはいえ、背中から襲い掛かる深きものを防ぐ事はできない。
奇声を上げながら鉤爪を振りかざしてフェランの背中を切り裂こうと襲い掛かる。
だが、次の瞬間、彼のこめかみに銃弾が突き刺さり、脳内へめり込んだ弾丸が爆裂する。
飛び散る脳漿と汚らしい緑色の体液が爆発と共に飛び散る。
それを成したのは、今だ銃口から硝煙の煙を出している一人の青年。
彼の手にしているのはベレッタ。
しかし、それはただの銃火器ではない。
旧支配者の魔力がこもった魔銃。魔銃『彼方より来たりて饗宴を張るもの』
その銃には異界の文様と呪文が刻み込まれており、コレ自体が神の力を借り受ける魔術武器へと変貌しているのだ。
「私はまだ《０＝０新参入者（ニオファイト）》だから大した魔術は使えないけれど……貴様らにはこれでも十分だ！！」
『恐るべきハストゥールの聲を聴き、渦の悲嘆の嘆息、沈黙の星のただ中にて、
険悪に渦巻く究極の風の狂おしい吹きすさびに耳を傾けよ―――！！』
銃に刻まれた呪文を唱えながら引き金を引くエイベル。
それに呼応したようにベレッタ『彼方より来たりて饗宴を張るもの』の表面が光輝き、
弾丸内の火薬に混ぜられたイブン・ガズイの粉薬が発動する。
火薬が炸裂する音。
それと同時に弾丸が深きものどもの一匹の鱗を穿ち、内部のハスターの力が込められたイブン・カズイの粉が反応し、
小規模な爆発が起こり、深きものの半身が吹き飛ばされる。
これはいわば魔術的な炸裂弾のようなものだ。
人外の怪物どもは魔術的・物理的に堅固な障壁を所有している事が多い。
小火器程度の並みの弾丸では弾かれてしまう可能性もあるのだ。
だが、この銃の前では多少の物理・魔術的障壁など些細な問題である。
フェランとエイベルはお互い背中合わせになりながら少しづつ数を減らしていく。
フェランは近接戦闘で近寄ってきた敵を葬り、エイベルは遠距離から敵を撃ち砕く。
そして、敵が攻撃してきた際には回避するか、時にはフェランの『旧き印』で防御する。
彼ら一人一人の能力自体は強大とは程遠いが、戦い方がお互い噛み合いすぎる。
お互いの弱点をカバーしあう良いコンビと言えるだろう。
そんな風に縦横無尽に深きもの達を葬り去る彼らの前に、一人の深きものが進み出る。
その姿は異形の神父のような冒涜的な刺繍が縫われた衣服に、黄金のような三重冠を頭にかかげ、一冊の書を携えた一人の深きものだった。
恐らくは、このダゴン秘密教団のリーダーに違いない。
「グ、グググ……。シ、自然を汚ス人間ゴトキガ……。我らニ逆ラウとは……。」
その異形の忌まわしい神父に対して油断なく構えながら鋭い言葉でフェランは言い放つ。
衣装こそ違うが、まぎれもなく、あの館で見たエイハブ・マージュそのものだった。
「ふむ、貴様がエイハブ・マーシュか。」
一つ呟くフェランに対して、エイハブはまるで仇敵を目にしたかのように憎しみに満ち満ちた爛々とした瞳でフェランを睨む。
その体から放たれる憎しみの毒気は、並の人間ならば、たちまち発狂してしまうほどの毒気だ。
「こ、コノ邪悪な聖地を穢したノミならず、我らガ神マデ冒涜スル気か……。
自分タチが正義ダトデモ気取ってイルのか……。
貴様ラコソ悪ダ。コノ穢れた大地を陽の気デ汚染シ、穢しつくす邪悪ダ……。」
その毒気が凝縮したかのようなエイハブの言葉に、フェランは飄々と軽く肩を竦めただけで受け流す。
「残念だがキミたちと善悪についての議論を交わすつもりはない。
これは我々人類とＣＣＤとの存続と生存をかけた生存戦争だ。
そこに善悪は存在しない。戦わねばやられるのなら、戦うまでだ。」
「ヨ、ヨカロウ……。ならば、貴様らノ好きナ戦いデ生存をキメヨウ……。
イデヨ、我が魔導書、《ダゴンへの祈り》よ……！！」
「貴様、それは……！！」
彼が手にした古びた書は、異様な水の妖気を放っていた。
ルルイエ異本や水神クタウトほどに強力な力は持たないが、それは明らかに魔導書である。
それこそ、ホーヴァス・ブレインの祖父にあたるアサフ・ウェイトが記した、ダゴンへの祈祷の詩。
すなわち。『ダゴンへの祈り』
それこそがこの書の名前である。
《イハ＝ントレイの深淵 その住民みなにより
キシュの印 それに従う者みなにより
イヘエの扉 それを用いる者みなにより
来たるべき者みなにより……
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん》
奇妙に流暢な言葉でそうダゴンへの祈りを捧げるエイハブ。
その呪文に呼応するように、地面がずずず、と振動を始める。
「む！これは……！！」
ざばん、と轟音を立てながら、地面がら天井へと水柱が放出される。
だが、それはただの水ではない。
その水柱は少しづつ形を変えて、水で作られた巨大な鋭い蛇の姿へと形へと変貌する。
そして、その水蛇たちはまるで生きているようにうねくりながら、エイベルとフェランへと牙を向ける。
「くっ……。奴も魔術師という訳か。」
轟音を上げ、神殿内の装飾や岩をその水圧で粉砕し、噛み砕きながら、水蛇達は二人へと襲い掛かる。
旧き印による防御結界を構築してやり過ごしたり、魔力の篭った拳で水蛇の頭を叩き潰しながらフェランは呟く。
また一方では『彼方より来たりて饗宴を張るもの』による弾丸を叩き込む事により水蛇を破壊する。
だが……。
「全く、これではキリがないな……！！」
破壊されても破壊されても次々と再生して再び襲い掛かる水蛇。
その源は魔力の篭った水だ。水を破壊する事など誰にも出来ない。
クトゥグァの加護でもあれば、一気に蒸発しつくす事もできるだろうが、彼らにはそれはできない。
いくら破壊されても再び再生し、またフェランやエイベルに襲い掛かる。
その根本的な対策としては、やはり、魔力の供給源を断つしかあるまい。
そう決断した彼らは、攻撃の手を水蛇ではなく、エイハブに集中させる。
『彼方より来たりて饗宴を張るもの』の銃口をエイハブに向けて、引き金を引くエイベル。
連続する射撃音。
弾倉に残ったありったけの弾丸を、叩き込んだのだ。
《イハ＝ントレイの深淵 その住民みなにより
キシュの印 それに従う者みなにより……！！るるいえ ふだぐん！！》
そのエイハブの詠唱と共に、エイハブの前の地面が真横に割れ、そこから凄まじい勢いで水が噴出し、水の壁を形成する。
それは超高圧で噴出される水の防壁だ。
弾丸は水の壁に着弾すると、それを突き破れずに、その場で無残に爆発する。
「はあっ！」
超水圧の水壁へと凄まじい勢いの右ストレートをぶちかます。
迸る魔力の輝きと鬩ぎ合う拳と水壁。後は純然たるお互いの魔力の闘争だ。
とちらかが凌駕した瞬間、決着はつく。
ぎり、と歯噛みをしながら、さらにフェランは拳に魔力を注ぎこむ。
少しづつエイハブの魔力によって構築されていた水壁が撓んで軋んでいく。
以下に堅固な壁であろうとも、一点のみに強力な破壊力を加えられれば崩れるしかない。
拮抗していた壁と拳だったが、やがてばしゃん、と音を立てながら超高圧の水壁は崩れ去る。
「ナ、ナンダト……！！」
そして、鋭い踏み込みで瞬時にしてエイハブの懐に飛び込んでいくフェラン。
そうはさせじと飛び込んでくるフェランを迎撃するように縦横無尽に水蛇が牙を剥きながら襲いかかろうとする。
だが、フェランを引き裂こうとした数十の水蛇の頭は、正確な射撃により次々と破壊されていく。
それを成したのは、まだ銃口から硝煙の煙を放ちながら、ベレッタを構えた一人の少年の姿。
それは『彼方より来たりて饗宴を張るもの』を構えたエイベルの仕業だ。
ひゅおん、ひゅおん、と上半身を降り始め頭の軌道が『∞』を描く。
そして、そのまま魔力の篭った拳で左右のフックの連打をエイハブの 胴体へと叩き込んでいく。
連打連打連打連打連打。
まるで巨大なサンドバックを殴るような途切れないドドドドドという鈍い音が周囲に響き渡る。
そのあまりの連打の前には、いかに人類より強靭な生命力を誇る深きものといえど、殲滅は逃れられない。
これぞ、ジャック・デンプシーが得意とした『デンプシー・ロール』
そのあまりの連打の破壊力に、エイハブの胴体はひしゃげ、内臓は全て破裂し、人間より強靭なはずの骨や鱗や筋肉までズタズタに破壊される。
「ゲ……ゲハアッ……！！」
口から汚らわしい緑色の液体を大量に吐き出しながら、エイハブは地面に膝をつく。
その量からして、彼の内臓は完全に破壊されているのだろう。
それだけではなく、骨や筋肉、硬い鱗までもが完全に破壊し尽されていた。
いかに強靭な生命力を誇る深きものでも、ここまでされれば、後は死を待つだけだ。
だが、死の間際、エイハブは最後の力を振り絞りありったけの叫び声を上げる。
《イハ＝ントレイの深淵 その住民みなにより
キシュの印 それに従う者みなにより
イヘエの扉 それを用いる者みなにより 来たるべき者みなにより……
ふんぐるい むぐるうなふ くとぅるう るるいえ うがふなぐる ふたぐん
復活せよ！我が神、ダゴンよ！！》
「まずい……！！星辰の位置が揃った！ダゴンが復活するぞ！！」
その瞬間、祭壇の上に位置する石像に異変が起こった。
いや、それはもはや石像ではない。
どくん、どくんと表面が脈打ち、ボロボロと表面の石が剥がれ落ちる。
そこから現れたのは呪われた霊質で構築された毒々しいほど生々しい肉体。
それはこの世界のいかなる生態系に属さぬ異形の命。
巨大な鱗を重ね合わせたような巨大なフジツボか貝殻を重ねたようなそんな極度に異様に発達した外殻が姿を覗かせた。
彫像の下から現れたソレは彫像を崩しながらどんどん肥大化していく。
まるで、蛹から脱皮する昆虫のように。
濁った色の目が周囲をぎょろりと嘗め回す。
発せられる邪気はまぎれもなく下級とはいえ邪神眷属そのものである。
同時に、その場に祈りを捧げている深きものたちが次々とミイラのように干からび、倒れ付していく。
生命力を目の前の邪神に吸い取られているのだ。
「フェランさん！」
「アキラメロ……人間。ショセン、貴様ラは神ヘノ生贄ナノダ……。
アキラメロ人類……！フハハハハ……！！」
その言葉と共に、ダゴンに生気を吸い取られ、エイハブはその呪われた生に終わりを告げた。
周囲の深きものどもも次々と生気を吸い取られ、ミイラと化して倒れ伏していく。
その吸収した生気により、ダゴンはさらに活発化し無差別に神殿を破壊し始める。
それはもう人智の及ばぬ自然の災害そのものだ。
身じろぎしただけで撒き散られる膨大な瘴気と邪気は、並の人間ならあっさりと発狂する濃度だ。
それは、邪神狩人とはいえ、初心者であるエイベルにはきつすぎるものだった。
思わず瘴気に当てられ、一時的な錯乱状態に陥りかけた彼を正気に戻すような清冽な詠唱が周囲に木霊する。
「第４の決印は旧き印！脅威と敵意を祓うものなり！！破っ！！」
フェランの詠唱と共に彼の手にしていた本、「ネクロノミコンにおけるクトゥルー」が鈍く輝きだし、彼らの前方に防御結界《旧き印》が構築される。
それは、邪神の邪気を防御し、邪気の影響をシャットダウンする。
だが、それも長くはもつまい。下級とはいえそれほど邪神の力は巨大なのだ。
それを知ったフェランはまるで祈りを捧げるようにしばらく瞳を閉じて精神を集中させて、何らかの魔術を使う。
軋みを上げる《旧き印》に魔力を注ぎ込みながら、瞳を開けたフェランは叫ぶ。
「さすがに俺たちでは下級とはいえ邪神の相手は無理だ……！
ここは引くぞ！バイアクヘーの詠唱を……。」
その言葉に、邪気に耐えながら、エイベルが必死の口調でフェランに反論する。
「だめです！ここで私たちが引いたら、インスマウスにいる人たちは……！
彼らを見捨てるつもりなんですか！！」
「実力差を考えろ！精神論で何とかできるほど、邪神との戦いは甘くはない！！」
「ですが、大勢の人たちが犠牲になるのを見過ごせるほど、私は人間はできてはいません！！」
にやり、とそれを聞いてフェランは口元に不敵な笑みを作る。
「安心したまえ。すでにセラエノにテレパシーで連絡は入れてある。
もうすぐ来るはずだ。我々の……いや、人類最強の魔術師が！！」
その言葉と共に、神殿の天井が爆砕され、破片が床に崩れ落ちる。
いや、それは爆砕ではない。
それは邪神の爪、異次元の魔風によって天井が粉微塵に『切り裂かれた』のだ。
舞い散る破片や煙と共に天井から神殿に光速にも匹敵するスピードで飛び込んできたのは、フェラン達も操る魔翼機バイアクヘー。
その背に跨るのは、サングラスをかけた威風堂々たる老賢者。
バイアクヘーは飛び込んできたままの速度でダゴンの背中へと体当たりを食らわせる。
「―――――！！」
外骨格がひび割れ、そこから汚液を垂れ流しながら悶えるダゴン。
そんなダゴンに関わらず、バイアクヘーはスピードを落とし、優雅に宙を舞うと、地面に着陸する。
バイアクヘーの背中から降りたサングラスをかけた老賢者は、フェランを見るなるにやり、と不敵に微笑む。
「ふむ、真打ち登場というわけだな。フェランくん。よくここまで頑張った。後は私達に任せておきたまえ。」
「は、博士！！ラバン・シュリュズベリィ博士！！」
涙ぐみながらのフェランの言葉に、エイベルは脅威の視線を老賢者へと向ける。
とても人類とは思えないほど強大な魔力を秘め、鍛え上げられた筋肉質な体。
そして、いつの間にか現れた彼の傍に寄り添うクールな容貌をした美少女。
恐らくは、彼女も人間ではないに違いない。
「うん、まあ、人間にしてはよくやった方だと思うよ。後は私達にまかせて、早く逃げたら。」
などと、クールな感じでフェランに言い放つ美少女。
エイベルは知らないが、彼女こそがセラエノ断書の精霊、ハヅキである。
そんなハヅキに対してフェランは、相変わらずハヅキさんはきついなあ、などと苦笑いを浮かべる。
だが、ハヅキと話しているフェランとは違い、エイベルはその老賢者に畏怖の視線を向ける。
「あ、あの人が……？」
「そうだ、あの人こそがラバン・シュリュベリイ教授。
人類最高峰の魔術師―――《大達人》の位階にまで達した大魔術師にして、偉大な邪神狩人。俺の先生だ。」
次の瞬間、神殿内部にダゴンの咆哮が木霊した。
じろりとこちらを見下す邪気に濁った瞳。
並の人間ならば、それだけで狂死してしまうほどだ。
どうやら、傷つけられたダゴンは怒りで身を忘れてしまっているらしい。
その身から生えたヒレをじたばたと動かし、触手を無差別に振りかざし、神殿内部を破壊する。
「いかん！フェランくん！この場から離脱したまえ！！」
言われるまでもない、いつものように黄金の蜂蜜酒を口にした彼らは、魔翼機バイアクヘーを呼び、速やかにこの場から離脱する。
フェラン達がバイアクヘーで飛び去った後、ダゴン身じろぎを始め、この自らを縛る狭い檻―――神殿を触腕で一気に破壊する。
崩壊し、瓦解していく神殿。
崩れ落ちる瓦礫を押しのけて、その威容は悠然と身を起こした。
―――海神ダゴン。
汚穢なる粘液を撒き散らし、魂をも腐敗させる腐臭を発しながら、吼える。
その瞬間、島のあらゆる動物達が一斉に逃げ始めた。
野生の本能は、この怪物が正真正銘の異界の神である事を本能で察知しているのだ。
だが、逃げるのに間に合わなかった鳥はその身を爆砕し、獣は泡を吹いて地面に倒れふす。
獣達を狂死させたダゴンの視線の先は幾多の無垢な人間の命があるインスマウス沖。
この多量の命はこの邪神へと良い生贄となるだろう。
だが、そんな狂気に満ちた世界の中、それを妨げるべく、威風堂々たる聖なる句が響き渡る。
それを成すのは、サングラスをかけた筋骨隆々たる老魔術師、人類最強の魔術師、ラバン・シュリュベリイ博士。
そして彼が所有する魔導書、セラエノ断書の精霊たるハヅキである。
『我は勝利を誓う刃金（はがね）。我は禍風に挑む翼。
無窮の空を超え、霊子（アユティル）の空を渡り、翔けよ、刃金の翼！
舞い降りよ―――アンブロシウス！！』
瞬間、空が爆砕した。
それは巨大な空間の歪み。そしてそこから姿を現すのはヒト型を模し鋼鉄の巨人。
それは人類守護の刃金にして、魔導書から召喚される偽神。
巨大な猛禽のようであり、鋼鉄のフレームからなる骸骨にも巨大な大鎌を所有する鋼の死神のようにも見える。
これぞ、鬼械神、アンブロシウス。セラエノ断書から召喚される強力無比な鬼械神である。
すでにハヅキとラバン博士はその身を光と化し、アンブロシウスと融合している。
魔術師と魔導書と鬼械神。
この三位一体が構築される事により、彼らは神すらも滅ぼす刃となるのだ。
瞬間、ダゴンが凄まじい勢いで天空に向って吼える。
それに呼応するように、ズズズと遠くから何かが向ってくる音がする。
「――――！！」
それは巨大な津波。
広大な海の水平線を全て埋め尽くすほどの膨大な大津波だ。
アンブロシウスの全長を容易く超えるその波はダゴンごと彼らを飲み込もうする。
とっさにアンブロシウスは鋼鉄の翼とフーン機関を発動させ、空へと逃れようとするが、
絶妙なタイミングで、ダゴンの触手がアンブロシウスの脚に絡みつく。
「くっ――――！！」
立った一瞬だけの足止め。だが、それは津波に飲み込まれるの十分だった。
凄まじい衝撃が３６０度あらゆる角度から襲ってきた。
怒り狂う竜のような水の奔流。それは圧倒的な質量をもってアンブロシウスを磨り潰そうとする。
何とナそれに耐え切る事ができたが、アンブロシウスが存在するのは最早暗い海の中。
海の深遠に吸い込まれたアンブロシウスのコクピットの中で、妙に粘質で強大な水の妖気を秘めた海中を見て、ハヅキが悲鳴をあげる。
「ダディ！これはただの水じゃない！！」
「むう。この水にはクトゥルーの神気が込められているようだな……。
その神気がアンブロシウスの動きと力を阻害しているのだ。
これではアンブロシウスは通常の半分の力……いや、十分の一も力を出せん。」
ラバン博士の指摘は的確だ。
クトゥルーの神気を受けた海の中では気象攻撃もエーテルランチャーもミサイルもその威力をほぼ完璧に削がれてしまう。
おまけに妖気に満ちた水が四肢に絡みつき、大鎌を振るう動きや移動速度まで鈍くなってしまう。
おまけに視界も悪く、魔力レーダーもクトゥルーの神気により撹乱されダゴンの位置もつかめない。
恐らくは、アンブロシウスがクトゥルーの落とし子を殲滅した事にクトゥルーも相当立腹したのだろう。
そのため、ダゴンに力を貸し、己の神気を宿した水を巻き起こし、アンブロシウスを一気に殲滅するに違いない。
３６０度、くまなく周囲を観察しながら、多発型飛翔魔術機関群と予備のスラスターを発動させて浮上しようとするアンブロシウス。
だが、当然それを見逃すほど甘くはない。
ゆらりと海中を蠢く魚影。アンブロシウスはとっさに大鎌を振るうがそれは容易く避けられてしまう。
思わず追撃をしようとするアンブロシウスだったが、水の中で予想以上に軽やかに泳ぐダゴンは、反転すると、アンブロシウスに触手の攻撃を見舞う。
回避しようとするアンブロシウスだが、妖気を帯びた水は奇妙に粘りつき、その回避行動を妨害する。
「ぬ、ぐ……！！」
ダゴンの触手がオリハルコン製のアンブロシウスの装甲を貫き、左肩と右足の太もも部分を刺し貫く。
元々、アンブロシウスは可変型であり、高機動性を重視しているため、装甲は他の鬼械神と比べても薄い方である。
それはつまり、防御力に関しては他のデウス・マギナに劣るという事だ。
貫かれた傷から水銀の血を流しながら、アンブロシウスは大鎌を振るい、触手を叩き斬る。
だが、それだけでは収まらず、鈍い動きで賢者の鎌を振るうアンブロシウスを嘲笑うかのように、
ダゴンはなおも数十の触手でアンブロシウスの全身をかんじがらめにする。
クトゥルーの神気を受けた水により動きの鈍ったアンブロシウスにそれを回避できるスピードはない。
バキバキ、と鋼鉄の鬼械神の装甲が悲鳴を上げ、オリハルコンで出来ているはずの装甲に罅が入る。
「く……ぬ！！」
アンブロシウスと一体になっているラバン博士にも、当然その痛みは伝わってくる。
それだけではなく、罅割れた装甲から邪気と神気を色濃く帯びた海水が入り込み、
デウス・マギナの内部構造や魔術回路を侵食し、発狂させていく。
「第三十から第五十までの魔術回路発狂！！
第六十から七十までの魔術回路も侵食され始めている！まずいよ、ダディ！！」
言われるまでもない。このままではアンブロシウスは粉々にされてしまうのが落ちだ。
そう判断したラバン博士は次の攻撃の指示をハヅキに下す。
「レディ！気象攻撃だ！竜巻を発生させろ！！」
「でも……。そうか！解ったよダディ！！」
アンブロシウスを中心にして空気の入り混じった周囲の水がゆっくりと動きだす。
それはやがて猛烈な回転となり、やがて強烈な渦巻きへと変貌していく。
ラバン博士は海中で無理矢理竜巻を発生させる事により、その回転を利用し海中に渦巻きを作り出したのだ。
「――――！！」
当然、アンブロシウスも渦巻きに巻き込まれるが、それはダゴンも同じ事だ。
あまりの渦巻きの回転速度に耐え切れず、ダゴンは触手を思わず離してしまう。
次の瞬間、ガシン、と凄まじい衝撃音と共に、アンブロシウスはダゴンの懐に飛び込み、そのままダコンに体当たりをかます。
むろん、それだけではない。
アンブロシウスは四本の腕でがっちりとダゴンをホールドし、決して離れないようにする。
ク ラ ス ター・フ ー ン
「レディ！多発型飛翔魔術機関群フルスロットル！！」
「イエス！ダディ！！」
「―――――！！」
ダゴンは声にならない呻き声を上げながら、必死に身悶えしてアンブロシウスの束縛から逃れようとする。
だが、そうはさせない。
アンブロシウスはダゴンをホールドしたまま、背中にある多発型飛翔魔術機関群が唸りを上げる。
凄まじい推進力が発生し、ダゴンを押さえつけたまま、アンブロシウスは上へ、海面へと凄まじい勢いで浮上、否、突進していく。
それを押さえつけようとするクトゥルーの神気が宿った水は、纏わりつき、さらなる水圧をアンブロシウスへとかけていく。
今やアンブロシウスは極めて粘性の高いダールの海を突き進んでいるようなものだ。
だが、それすらも問題にせず、ついに海面を突き破り、ダゴンを空中に放り投げると、空を舞うデウスマギナ。
そして、空中に舞い上がったダゴンの周囲に、轟、とハスターの神気を受けた魔風がダゴンの周囲に吹き荒れる。
その下から上に突き上げてくる猛烈な上昇気流、否、竜巻はダゴンの肉体を宙に浮かせ、
再びダゴンが海中に戻らぬように空中に巻き上げて「固定」されているのだ。
「――――――！！！」
ダゴンは必死で己を空中に巻き上げて固定している魔風に対抗するように体をじたばたと動かすがそれもムダなこと。
いかな邪神といえど、実体のない風を殴る事などできはしない。
これぞアンブロシウスが得意とする攻撃の一つ。気象変化による気象攻撃である。
「―――ミードセット！！」
そのハヅキの言葉と共にアンブロシウスの鋼鉄の翼が開き、多発型飛翔魔術機関群が唸りをあげる。
片手に大鎌―――賢者の鎌を構えるその姿はまさしく鋼鉄の死神そのものだ。
「―――戯曲・黄衣の王！！」
そのラバン博士の声と共に、アンブロシウスの瞳にさらなる力が篭る。
「フーン機関オーバードライブ！」
多発型飛翔魔術群が凄まじい勢いで魔力噴射を行い、アンブロシウスは一瞬にして超音速の世界へ到達する。
異次元の雲を機体の周囲に撒き散らしながら、
空中へと浮かぶダゴンに到達すると、そのままアンブロシウスは縦横無尽に賢者の鎌を振るう。
「「風は虚ろな空を征く。声は絶えよ 歌は消えよ
涙は！！流れるまま枯れ果てよ！」」
ダゴンの周囲を残像が見えるほどの超スピードで飛び交いながら、賢者の鎌で無数に数十、いや数百回もダゴンを切り刻んでいく。
それはまるで華麗で苛烈で優美なダンスを踊っているようにも見える。
それほどの洗練かつ苛烈な攻撃だった。
これぞアンブロシウスが必滅奥義『凶殺の魔爪』である。
「ここが最果ての空…」「カルコサの夢を抱いて眠れ！」
まるでダゴンに向って弔いの言葉のように、二人の声が木霊する。
ズタズタに引き裂かれたダゴンはすでにただの肉片になりながら、その血肉を自らの海へと還していく。
それが数万年の齢を得た海魔ダゴンの終焉であった。
ダゴンを殲滅した彼らはアンブロシウスを超時空的に格納し、魔翼機バイアクヘーに跨ったラバン博士が現れる。
彼らはフェランらが避難している小島にたどり着くと、そこに着陸し、ハヅキもバイアクヘー状態から普通に人型へと戻る。
「見事な攻撃でした！博士！！」
そこで待ち受けていたフェランは歓声をあげながら博士に駆け寄っていく。
エイベルの方は初めて見る邪神とデウス・マギナとの決戦に呆然としている状態だ。
「当然よね、ダディ。」
僅かに自慢げなハヅキの言葉に対して、ラバン博士はうむ、と一つ頷く。
「うむ、何も特別な事ではない。
的確な装備と十分な情報、そして対策さえ取られていれば我ら人類でもＣＣＤを駆逐できるのだ。
ダゴン復活は想定の範囲外だったが、エイハブ・マージュを倒し、深きものどもの拠点を壊滅せしめた事は十分に合格点といえるだろう。
よくやったな、フェランくん。」
そうフェランに対して声をかけると、今度はラバン博士はエイベルの方にゆっくりと近づいていく。
「君がエイベルくんか、君もなかなか見所がある青年のようだ。
どうかね？私達と共に戦うかね？」
「は、はい！！」
あまりにも雄渾な威厳を宿りしたその老博士に、エイベルは思わず頷いてしまう。
それに笑みをもって答えるラバン博士だったが、次の瞬間再び大声を上げる。
「―――では諸君、これより講義を始める！
これより神殿跡の実地検分を行う！あの島に集合！！」
「「はい！！」」
そうして、彼らはバイアクヘーを駆り、最早ほぼ完全に破壊されたダゴン神殿へと向っていった。
ダゴン秘密結社はほぼ壊滅状態になったが、彼らの戦い……クトゥルー教団の戦いはまだこれからが本番である。
今だ暗雲立ち込める空、だが、その空からは暗雲を切り裂くように、一筋の光が差し込んでいた。
まるで、彼らの戦いを象徴するように。
……彼らの戦いは、まだこれからである。
続く
読んでいただいてどうもありがとうございます。『永劫の探索者』第三話をお送りします。
ちなみに「遺跡破壊者」ではフェランもエイベルもどちらかというとただの学生の雰囲気でしたが、
こちらでは一人で戦える程度の戦闘能力を付与してあります。
まあ、ループの中にはこういうフェランたちもあったという事で。
そして、「遺跡破壊者」のお陰でエイベルボクっ娘計画も挫折してしまいました。にょろーん。（始めから無謀です）
ちなみに、「彼方より来たりて饗宴を張るもの」は闇匣さまの参考にさせていただきました。
http://www.geocities.co.jp/Playtown-Darts/9144/Creature/feaster.htm
後、デルタグリーンについてはこちらを参考にさせていただきました。
http://www7a.biglobe.ne.jp/~byakhee/essay/delta_green.html
どうもありがとうございました。
よろしければ感想など送ってくださるととても嬉しいです。
それでは、またお気軽にお立ち寄りください。
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