ノウム・カルデアが彷徨海に作られ、異聞帯を攻略し、その縁によって医神アレクピレオスが召喚されて以来、ノウム・カルデアは変わった。何が変わったのかというと、ノウム・カルデアの職員たちは当然として、サーヴァントたちにも月一回の健康診断が義務づけられたのである。
「サーヴァントに健康診断なんか必要ない。」とゴネるサーヴァントたちもいたが、そのことごとくは、バーサーカー、ナイチンゲールとそれを回復する医神アレクピレオスの手によって無理矢理に健康診断を受ける事になった。
その内、無駄に戦うよりも大人しく健康診断を受けた方が早いと悟ったほとんどのサーヴァントたちは、次第に健康診断を受けるようになっていた。
「うう〜。痛いのだわ。チクッとするのだわ。注射器は嫌なのだわ〜……。」
それは例え神霊の疑似サーヴァントといえども例外ではない。いや、疑似サーヴァントは依代となっているのが人間としての肉体なので、他のサーヴァントよりも綿密な健康診断が必要となるのだ。彼らは霊体化できず、食事や睡眠など人間の生理機能に労力を割かなければならない。
それゆえ、他の通常のサーヴァントよりもアスクレピオスは綿密な健康診断を行っている。
疑似サーヴァントは大抵神霊やら特殊なサーヴァントが多い。強力な力や特殊な能力を持つ分、綿密なメンテナンスが必要となるのだ。
今診断を受けているのはエレシュキガル。冥界神である彼女と言えど、健康診断からは逃れられない。特にこういった神霊が人間の肉体に憑依した例では、神霊が肉体の限界を考慮せずに全開を発揮し、肉体を損耗させてしまう例もある。
言うなれば、アスクレピオスは強力な兵器の整備兵といった所だ。
注射器で採血されているエレシュキガルは、注射器が苦手なのかぎゅっと目を瞑ったまま採血をやり過ごした。
戦いによる負傷は大丈夫でも、注射器は苦手というサーヴァントは意外といる。アスクレピオスには理解できないが、どのみち健康診断を拒むというのなら実力行使である。
採血も終わり、注射痕にガーゼとテープをつけてこれでエレシュキガルの健康診断は終わりである。
先ほども言ったが、特にエレシュキガルのような疑似サーヴァントには注意深い健康診断が必要になる。
神霊の強大な力と人間の脆い肉体を持ったアンバランスな存在。それが神霊の疑似サーヴァントなのだ。通常の普通車にＦ１のエンジンを搭載したような物である。
「さて、定期健診を行った結果、異常なしではあるが、お前には個人的に聞きたいことがある。少しいいか？」
「それは、冥界神として聞きたい事？」
そのエレシュキガルの言葉に、アスクレピオスはこくり、と頷く。
「そうだ。お前も知ってると思うが、僕は完全な死者蘇生を行い、死人を生者へと変えた。これをお前はどう思う？」
それはエレシュキガルも知っていた。完全な死者蘇生を起こったアレクピレオス。魔法ですら不可能な事を行った偉大な医神。そして、それは冥界の権能を侵すことである。
ギリシア神話での冥界神ハデスがゼウスに頼んでアレクピレオスの命を奪ったのは、冥界神としての視点や神霊としての視点から見れば正しいと思えるが、今彼が求めているのはそういう事ではあるまい。
「無論、僕はお前たちが何をいおうが何を思おうが死者蘇生の真薬作成を続ける。
だがいきなりまたズドン！はゴメンだからな。お前たちの最低限の思考の把握だけはしておきたい。それだけだ。」
つまり、エレシュキガルが何を言おうと死者蘇生は絶対に諦めるつもりはない、という事だ。
その言葉にエレシュキガルは思わず呆れてしまうが、少し考えて言葉を放つ。
「貴方の住んでいたギリシャでの冥界はよく分からないけど、メソポタミアの神代では生と死の境界は比較的緩やかなのだわ。メソポタミアでの資料を読んだかは分からないけど、実際私がウルクの住民たちの魂を奪った時、肉体があれば魂を開放したら普通に生き返ったのだわ。」
これは事実である。絶対魔獣戦線バビロニアでも、三女神同盟の一柱としてエレシュキガルはウルクを攻撃し、ウルクの人たちの魂を奪っていたが、それを開放した結果、肉体のみになっていた人たちはあっさりと生き返った。
神代の時代はこれほど現世と冥界が（物理的にも）近く、生と死のルールはそこまで厳密ではなかったのである。
だから、エレシュキガル個人としては絶対に死者を生き返らせてはいけないという考えではない。
多少ならば生き返ってもいいのではないか、という柔軟性は持ってはいるが、それはそれとして譲れない部分はある。
「けど、それとこれとは別。貴方の行いは我が冥府の権能を侵す物。貴方のやった事は冥界神としては許されるものではありません。……ですが、まあ私個人としては、多少は「お目こぼし」はしてもいいと思うのだわ。別に私は絶対に生き返らせてはいけないという訳ではないし。」
「ならば。」
ぎらり、と目を光らせたアスクレピオスに対して、エレシュキガルは制止をかける。ここで下手に許してはとんでもない事になるだろう事は明白だからだ。
「いやだから待ちなさい。その前に、色々考えなくてはならない事があるわ。今の社会システムのまま蘇生薬なんて普及させたら大問題になるわよ。」
死は万人に公平であり、そこを覆すというのなら、社会システムをそれに対応できるように改善しないといけない。それをせずにただ蘇生の薬を普及させたら、世界に大きな混乱が起きるのは目に見えている。
「物事には順序があるという事。貴方、今……というか人理焼却前の地球の人口知ってる？」
「確か70億だったか。まったく増えに増えたりだな。ゼウスが現代でも存在していたら確実に大戦争を起こして人口を減らしていただろうな。」
アキレウスやヘクトールたちが活躍したトロイア戦争。その元凶は、人口が増えすぎて負担がかかっているガイアを楽にさせるべく、ゼウスが裏で手を引いて戦争を起こし、人口を減らすべく起こした事である。
アキレウスやヘクトールはともかく、真相を知ったアレクピレオスは「やっぱり神々ってクソだな」という感想しか出てこないが、現代でもゼウスが存在していたら、確実に人口を減らすために大戦争を起こしていただろう事は確信できる。
そう、人類の数は明らかに増えすぎた。その勢いは地球自体を食い尽くさんばかりの勢いである。
そのアレクピレオスの言葉に、エレシュキガルが頷いた。
「それよ。死者を復活させる事は人間の根本を変革するということ。一人や二人ならまだいい。それが1億人や10億人
なら？絶対に地球自体が耐えきれないのだわ。ただでさえキャパシティーが一杯の所に、さらなる人口爆発が起こればどうなるか……。食糧難、戦争、貧困……。そうなるのは目に見えているのだわ。それを無視して死者蘇生だけに固執すれば、生前以上の悲劇が起きる。貴方はそこまで責任を取る必要があるのよ。」
確かに彼女のいう通りだ。今の人類は地球すら食い尽くさんばかりの勢いだ。そこにさらに大量の死者が生き返ったらどうなるか？答えは明白だ。限られた食料物資などを巡って世界大戦すら起きる危険性すらある。
善意で行った出来事が大きな悲劇を引き起こすきっかけになる。そんな出来事を彼らは数多く見てきた。
「地獄への道は善意でできている。」とはよく言ったものだ。
「……僕はただの医者だぞ。政治家じゃない。」
「けど、それが貴方のやろうとしている事の行き着く果てなのだわ。人類という種族の根本を変革するというのなら、きちんとそれに対応する社会システムを作り上げなくてはいけない。そうしなければ世界に大きな悲劇を引き起こすの。貴方ノーベルって知ってるかしら？」
これは、エレシュキガルが偶然調べた結果得た知識である。
歴史においてある時代で死傷者が急激に増えるターニングポイントがある。
例えば、第一次世界大戦や第二次世界大戦だ。
そして、その大戦の前、死傷者が急激に増えた一例がこのノーベルが作り出したダイナマイトである。
「ああ、確かダイナマイトとかいう物を作った科学者だろう。」
「そう、ノーベルはダイナマイトを作り上げた。それは土木作業用のためであり、ダイナマイトが戦争に使われる事は想定外であり、これだけの威力があれば戦争の抑止力になると思っていたの。ところが結果は貴方も知っての通り。ダイナマイトは戦争で多様され、多くの死傷者を出し、本人はそれを後悔していたというわ。他にも自らの発明によって後悔した科学者たちは山のようにいるわ。そうなりたくなければ、きちんとそうならないように考えなさい。」
確かに彼女のいうことは正論だ。ただ何も考えずに死者蘇生の薬を作っただけでは、自分のみならず社会全体に大きな損害を与えるだろう。自分たちの私利私欲のためにアスクレピオスを狙う勢力も多数出てくるに違いない。
何せモノは死者蘇生の薬だ。世の権力者たちが時代を問わず求め続けた物である。完全な死者蘇生は魔法であっても不可能な代物である。そんな物は多大な金になるに決まっているし、誰もが皆欲しがるに決まっている。
「だが、僕の薬には非常に希少な素材が必要になる。ゴルゴーンの血液に、アテナに匹敵するほどの神の加護をその血に込めなくてはならない。他にも貴重な素材が山ほどある。そんな物を大量生産できると思うか？」
「それでも、死者の家族や関係者は山のように貴方に縋り付いてくるわ。「お願いですから生き返らせてください！」とね。材料が貴重なら、その中から生き返らせる存在を選ばなければならない。選別しなければならない。それはまさしく神の領分だわ。」
医療にもトリアージという物はある。それは患者の重症度によって治療の優先順位を選別する方法である。
医療体制を考慮しつつ、患者の重症度や緊急度を選別し、治療などの順位を決めていく。助かる見込みのない患者、あるいは軽傷の患者よりも、治療をする事によって命を救える患者を優先するという物である。これもある意味、命の選別と言えるのかもしれない。だが、それはあくまで救える可能性のある人たちを効率よく救うための物。
すでに死んでしまった人たちを生き返らすという判断基準とは大きく異なる。そう、亡くなってしまった人たちをどういう基準で生き返らすのか。そこに大きな問題点があるのだ。
それを判断できるのは、まさしく神の領域である。
「死は公平であり、あらゆる存在へと襲い掛かる。対して蘇生は対象を選ばなければならない。そこには必ず嫉妬と憎悪と紛争が巻き起こるわ。」
助けてください、助けてください、と何百回も何千回もアスクレピオスは患者自身や患者の家族から請われたことはある。それがもしも、生き返らせてください、と請われたら、果たしてアスクレピオスはその願いを無碍にできるのか？
「だが……それでも僕は。死者蘇生を、真薬を作る事を辞めない。辞める事はできない。」
それを聞いてエレシュキガルは思わずため息をついた。
究極の病である死の根絶。それはアスクレピオスの根本であり根源だ。
それを諦めるという事は彼自身が自己否定を行うことだ。
そして、それは冥界神であるエレシュキガルとは相いれない。
だが、相容れることはできなくても、理解することはできる。
「でしょうね。冥界神としては思うところはまあ、かなり、というか滅茶苦茶あるけれど……別に説得するとか力づくで止めさせるという事もする気はないわ。死を克服できると思うのなら挑戦してみればいい。私は一切干渉しない。それが冥界神としての私の落とし所なのだわ。他の神は知らないけれど。」
その言葉にアスクレピオスは驚いた顔を見せる。
彼の知ってる冥界神ハデスはそんな柔軟性はなかったからだ。
（まあ彼の立場からしてみれば仕方ないことなのだが）
「正直、私は貴方と貴方の末である医者たちの行った事は評価している。貴方の行っている事は正しい事よ。少なくとも、生者の立場からすればね。昔の人間の寿命は平均およそ４０代、それに比べて現代の寿命はおよそ１００代。ペストやコレラ、チフスやマラリアなど様々な疫病に対する対抗策を身に着け、天然痘を撲滅させた。それは貴方の意思を受け継いだ医者たちが成し遂げた事よ。それは人類にとって大きな功績なのよ。私にはネルガルから譲り受けた疫病と熱病の権能を所有している。それらを克服するのがどれだけ大変なのかもよく知ってる。冥界神としてはアレだけど、だから貴方たち医者には敬意を払っているのだわ。」
生なくして死なし。死なくして生なし。
冥界神であるエレシュキガルはそう思ってはいるが、一方で生きようとする意志、病を治そうという意思は肯定している。そして寿命を延ばし、病を克服しようと戦っている医者や生者に敬意を払っているのだ。
それを聞いた、アスクレピオスは少し顔を逸らす。
まさか疫病と熱病の権能を持った冥界神にこんな事を言われるなど、予想外だったからだ。
「……アンタは、優しいな。ウチのクソッタレな神どもやクソ太陽神にも見習ってほしいぐらいだよ。」
「そう言ってくれると嬉しいのだけど、これはあくまで疑似サーヴァントとして依代の人間の価値観が混じった結果なのだわ。単純な神霊としての私はもっと無慈悲で冷酷な存在だもの。その私では、決してこの結論には至れなかったでしょうね。」
穏やかなエレシュキガルの微笑み。だが、それはどこか全てを諦めた諦観を秘めた微笑みでもあった。
「だが、僕がいうのも何だか……アンタはいいのか？」
「よくはないけれど……仕方ないわね。あの紅閻魔とやらも言っていたけれど、もう冥界は時代に取り残された幻想になってしまったの。いずれ人類が第三魔法で不老不死を獲得し、宇宙に飛び立つ時が来たのなら、冥界も不要な幻想としていずれ消えていくでしょう。」
「……。」
「そんな顔をしないで。それはそれで「いい事」なのよ。ドゥムジも言っていたでしょう？「私たち神は結果が正しければそれで良いのです」って。冥界が不要となったという事は人類が次のステージへと進化したという事。寂しいとか悲しいとかはあるけれど……人類という種族が正しい選択をしたのならそれでいいのだわ。」
そのエレシュキガルの言葉に、アスクレピオスは頷く。
「ふむ。とりあえずアンタがあの石頭のハデスより話ができる存在だと分かって良かった。まあそれはそれとして。」
その次の瞬間、アスクレピオスはシャーレやら寒天生地やら試験管やらなにやら細菌研究のための資材を取り出した。
その彼の顔には、鬼気迫るものがエレシュキガルには感じられた。
「あのネルガルとかいう残留思念、僕がここに来る前にシュメル熱とかいう謎の風土病をカルデアにばらまいたらしいな？ネルガルに出来てお前にシュメル熱の病原体がばらまけないはずはあるまい？他にも疫病と熱病の権能を持っているとか。さあ、それについて根掘り葉掘り情報を全て吐いてもらうぞ。」
「な、何でなのだわ！あなたの研究は認めたはずなのだわ！」
「それはそれ！これはこれだ！死についての研究は確かに不干渉だが、疫病やシュメル熱とやらの情報については何も約束してないからな！僕は謎の風土病とか大好物なんだ！さあ吐け！情報を吐け！シュメル熱の病原体のサンプルを寄越せ！早くしろハリーハリー！」
「た、助けてー！へるぷみー！へるぷみーなのだわマスター！」
結局、マスターの執り成しもあって、エレシュキガルはアレクピレオスにシュメル熱についての詳しい情報とシュメル熱の病原体を渡すことで話がついた。
新しい病気のサンプルを手にいれてご満悦のアレクピレオスは、あっという間にシュメル熱へのワクチンを作り上げたが、それはまた別の話である。
こんにちわ。零です。
読んでいただいてありがとうございます。
今回はウェイバーとランサーが出番がなくて申し訳ありません。
唐突にアイデアが思いついたので、思わず書いてみました。
よろしければ感想などいただけるととても嬉しいです。
なお、これらの小説は全てフィクションであり
実在の人物、団体、法人、国家、宗教等とは一切関係有りません。
また登場する人物は全て１８歳以上です。
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