―――私、鷺沢文香はうす暗い書室の中にいた。
静かで穏やかで平穏な世界。そこにいればずっと穏やかな世界が続くのだろう。
でも、その書室の出口には眩い光が差し込んだ。
ここに居れば、ずっと平穏だと分かっているのに。
それでも。
私は。
その眩い光に手を伸ばして―――。
―――文香がプロジェクトクローネに所属し、常務直属のアイドルとして、奏と激しいＬＩＶＥバトルを繰り広げてしばらく後、
彼女たちはプロジェクトクローネとしての活躍を続けていた。
大々的に宣伝を行っただけあってクローネの知名度は少しづつ上がっており、仕事や人気も次第に上がっていった。
だが、一方でネットを中心として「金でゴリ押ししたプロジェクト」とクローネを揶揄する風潮があるのも事実であった。
しかし、いちいちそんな評判を気にしていられるほど彼女たちは暇ではない。
クローネとしての仕事で多忙を極める中、文香と奏は美城常務に呼び出しを受けていた。
「新しいイベントに新しいユニット……ですか。」
「そうだ。鷺沢と速水、橘、そしてには新しいイベントユニットを作成してもらう。『咲いてジュエル』というイベントユニットだ。
このイベントに君たちが抜擢されたのは、プロジェクトクローネとしての活躍が認められたからだ。
これは君たちの努力が報われたと思ってほしい。私は努力と成果には報酬を持って報いるタイプだ。」
「基本的な曲と歌詞、それに衣装などは決まっているが、何か意見があるなら担当に言ってくれて構わない。
多少の変更は現場の判断を尊重しよう。ユニット名も君たちで決めてくれて構わん。
私にはよく理解できないが、その方がユニットに愛着が持てるというならそうしてくれてもいい。」
その常務の言葉にそこに集められたアイドルたちは一斉にざわめき出す。
プロジェクトクローネではない新しいユニットが結成されるとなれば、それだけ彼女たちの知名度が上がるチャンスが増えると言う事だ。
「クローネの活動が認められたのは嬉しいわね。今回のイベントも皆頑張りましょう。さて、それではユニット名はどうしましょうか？」
その奏の言葉の真っ先に答えたのは飛鳥だった。
「ＣＡＥＲＵＬＡ(カエルラ）というのはどうかな？」
その飛鳥の言葉に、皆は頷いた。
「カエルラ……。『青』を意味する言葉でしたか。いいのではないのでしょうか。」
「よっしゃ、決まりやね〜。それじゃカエルラのお仕事、皆で頑張ろか〜。」
そして、カエルラとしての活動が始まった。
アイドルとしては皆より先にデビューしていた飛鳥ではあるが、やはり年齢と資質的に向いていないとリーダー役を真っ先に降りた。
結果的に周子がリーダー役となり、奏は自然と副リーダー役として収まる事になった。基本的に器用な周子ではあるが、
初のリーダーと言う事で不慣れな事も多く、そこは奏がフォローする事で何とかやりくりをしていた。
元々クローネとしての活動をしていた彼女たちと、彼女たちがより先輩である飛鳥の新ユニットという事で、滑り出しの反応はまあまあだと言えた。
だが、そこには一つの誤算があった。
それは、ネット上の評判である。
元々、プロジェクトクローネはネット上での評判はいい物ではなかった。大々的に莫大な宣伝費を使用して、新しいアイドルたちを売り出す。
それは、「宣伝に大金を使ってゴリ押ししているアイドルたち」と彼らの眼には見えてしまったのである。
さらに346プロダクジョンの内部状況がネットで多少なりとも流れてしまったのが拍車をかけた。人の口に戸は立てられない物。
常務の急激な改革に不満を持った者たちがＳＮＳで愚痴を言った結果、内部状況がネットユーザーに歪んだ形で広まってしまったのである。
その歪んだ噂がネットに存在していた敵意と結びつき、一時期は荒れてしまった事もあった。
シンデレラプロジェクトと事実上の和解を行い、急激な改革を緩やかな物にしたため、そちらの方は落ち着いてきたのだが、
やはり「クローネはゴリ押し」というイメージが存在している事は事実である。
そして、クローネが多いカエルラとしてもそれは例外ではなかった。
マイペースな周子に飛鳥、基本的にネットをあまり見ない文香はともかく、タブレッドを持ち歩いていてネットに過敏なありすなどは、
そういう評判を見て怒る事も多々あるため、それをなだめるのも文香や奏の役割である。
とは言え、このような状況がいい物とはいえないのは事実である。
そのため、クローネメンバー内部でも何らかの手を打つべきだ、と美城常務に対して意見する事もあるのである。
「やはり、人心という物は上手くいかない物ですね。
まさか金をかけて宣伝した事が逆にゴリ押しという反発を食らう事になるとは。」
当然、常務もその状況を知っており、クローネの皆のメンタルを安定させるべくその評判を何とかしようと四苦八苦していた。
だが、一度立ってしまったネット上の評判はなかなか消える物ではない。
人の口に戸は立てられぬとは言うが、まさにその通りだ。
これに対抗するためには、実績と実力を見せて彼女たちの実力は本物である、と認めさせる必要がある。
当然、その能力と実力はクローネメンバーには十分ある、と常務は考えているが、やはりそれには時間がかかる。
実際、クローネのここ最近の活躍によってそうしたネット上の悪評は少なりつつあるが、それでもやはりまだまだ完全に消える事はない。
そんな美城常務の言葉を受けて、執務室で彼女の話し相手になっていた今西部長は思わず苦笑いする。
「それはそうさ。そんなに人の心を上手く捉えられるのならエンターテインメント業界は苦労していないよ。
しかも最近はネットが普及してアッという間に悪い情報が伝達して炎上とかもありうるからね。
今まで受けてだった普通の人々が発信源となる事で、予想もできない事態もありうるし、悪い情報が伝達されてしまう事もある。まあ、我々にも変化が求められる時代という訳さ。」
美城常務とシンデレラプロジェクトの和解が事実上成立現在では、彼もよく常務の執務室へと足を運ぶようになっていた。
彼女も、あの一件以来よく彼の意見を聞いたり相談するようになっていた。
今まで独断で決める事が多かった彼女にとっては、これも大きな変化と言えるだろう。
「ええ、クローネのみならず346プロダクジョンのアイドル、並びに全職員にはツイッターやＳＮＳでの情報伝達には、気を付けるようにすでに通達は出してあります。
あまり言いすぎると返って反発を食らってしまう可能性もありますが。」
「まあそれはいい事だと思うよ。特にアイドルたちはね。
アンチたちならまだしも、何らかの問題を起こして炎上した場合、最悪そのアイドルを切り捨てなければならない。
それは引いては346プロダクジョン自体のイメージに大きく傷をつける事になりえるからね。
……まあ、フレデリカみたいにフリーダムで愛されてる場合もあるが、あそこらへんは本人とプロデューサーに任せた方がいいだろうね。」
「ええ、理解しています。あまり強権的に振る舞うのは得策ではない、ということは。しかし、まだネット上の評判があまり良くないのはどうしたものかと。」
「やはり日本人は昔から判官びいきだからね。
下積みが少ないパッと出のアイドルたちがいきなり大々的に宣伝されればこういった反応も不思議ではないさ。」
「……私のやり方が間違っていた、と？」
「そうは言っていないさ。事実、クローネは十分に人気は出ているし、十分に成果が出ている。
ただ、あまり急激に物事を行いすぎると反発する層は出てしまうと言う事さ。
彼女たちが実力をつければこれらも自然に立ち消えとなるだろうが、あまり長期間に渡ると、
彼女たちのメンタルに悪影響を及ぼしかねない。今の内に対策を取っておいた方がいいだろうね。」
その部長の言葉に、彼女は頷いた。
「……分かりました。クローネのメンバーたちのメンタルケアに注意するよう各アイドルのプロデューサーには言っておきます。
だが、それだけを待っているだけでは事態は好転しない。私の方でも、新たな企画を提案してあります。」
その美城常務の言葉に、部長は手元の資料をぺらぺらとめくり、企画内容を確認する。
「拝見させてもらったよ。ふむ、高垣楓とカエルラとのＬＩＶＥバトルか……。
悪くはないが、カエルラは出来たばかりのユニットだ。
そんな彼女たちが346プロトップエースアイドル、高垣楓に立ち向かうというのは難しくはないか？
……いや、『それだから』いいのか。」
その今西部長の言葉に今度は常務が頷く。
「ええ、『強者に立ち向かう』というシチュエーションに関しては日本人問わずどこの人間の好感を得る物ですから。王道と言っても差し支えない。
逆に『弱い物いじめ』はどこでも嫌われるものです。
ただでさえ一部に『ごり押し』と思われているクローネが『弱い物いじめ』をしたのなら、もう評判はどうしようもなく落ちてしまう。
逆に格上に相手に立ち向かうというシチュならば問題はありません。……まあ、アイドルたち本人たちには負担をかけてしまうかもしれませんが。」
美城常務の言葉に、部長は思わず微笑んだ。アイドルたちの負担の事まで考えるとは、以前の彼女ならば行わなかった事だからだ。
「アイドルの負担を考えるとは君は本当に変わったね。
いやいや、苦言を呈しているわけではないよ。いい意味で変わったと思っているだけさ。
そうであればわざわざ私が苦言を呈する必要もない。さて、お互いに仕事を頑張ろうじゃないか。」
―――場所は変わり、文香の叔父の古書店。
とある事がきっかけで、奏は文香の家に半同棲状態になっている。奏の家庭は奏に無関心であり、あまり家に帰ってくる事もない。
そんな家庭に育った奏は、一人では眠りが浅い不眠症にかかっていた。
だが、不思議な事に居心地のいい文香の家では不眠症は出ずに深い安らかな睡眠が取れるのだ。
そのため、自然に奏の足は空虚な実家よりも文香の家に向かう事になり、自然と半同居状態になっているのだ。
基本的に家事をあまり行わない文香の代わりに、最近では奏が家事を行うようになっている。料理なども他のアイドルから教わった奏は、元々器用なため見る見る内に料理が上達している。
放っておくとカロリーメイトやコンビニ弁当など適当な物で済ませてしまう文香に対して、きちんとした料理を作ってくれる奏に対しては文香の叔父も非常に感謝しているらしく、
事実上の半同棲生活でも特に何か言ってはこない。
むしろ、奏が来てくれないと逆に心配してしまうほどである。
奏はしっかりと文香の栄養バランスも考えたしっかりとした食事を作ってくれる。男性だとやはりそこまでは気が回らないため、奏に対しては強い信頼と感謝を寄せているらしい。
カエルラとしてユニットを組み、レッスンを行っている二人は、バラバラの仕事を行っているよりも遥かに一緒の時間を過ごしやすい。
そして、その共に過ごす時間は、お互いにとっても幸福な時間だった。
「私の家に、来たい？」
食事をしながらも、じっ、とこちらを真正面から覗き込んでくる文香の碧い瞳を見て、奏は思わずどきり、とする。
空の青がそのまま映しこまれたような文香の碧い瞳。
そう言えば文香は青空の見上げるのが好きだったので、その青が瞳に宿ったのかもしれない、と他愛ない妄想を頭を振って打ち消しながらも、奏は、文香の言葉に答える。
「ええ。奏さんはいつも私の家に通いつめてくれていますが……私から奏さんのお部屋にお邪魔したことがない、とふと思いまして。
その、友人の家に遊びに行くというのは私の憧れだったもので。」
その言葉に、基本的に文香と一緒にいる時は幸せそうな奏の貌が曇る。
彼女が、文香に対してこんな表情を見せる事は稀だ。それだけでも、彼女の家庭環境がうかがい知れるというものだ。
「……私の家に来ても何もないわよ。いえ、面白い事は何もない、と言いかえるべきかしら。あそこはとても、空虚だから。
それより、文香と一緒にいられるこの場所にずっと居たいのだけれど……その、文香は嫌、かしら？」
その奏の言葉に、文香は激しくかぶりを振る。
「いいえ……いいえ。そう言っていただけるととても嬉しいです。
奏さんさえよろしければ、いつでも来ていただいていいですよ？」
にこり、と穏やかに微笑む文香に対して、奏は安心感を覚える。
それは無機質な実家では決して感じられない物だ。
「まあ……ほとんど毎日来ているような物だけれどね。
それと文香、私の選んだ下着はどう？」
「ええ、奏さんの選んでくださった下着はとても着心地も肌さわりもいいですし、汗も吸収してくれます。
今まで下着にお金をかけるという事がよく解らなかったのですが、最近になってようやく理解できました。」
最近は、奏は文香の服だけでなく、下着も一緒に買いに行っている。
文香の場合『着られば何でもいい』というタイプなので女性の下着の重要性について説明するのに苦労したが。
公表しているサイズよりも明らかに小さいサイズだったので逆サバを読んでいるのかと思っていたのだが、実際は、単に胸が成長しているのに気づかず、
小さいサイズのブラをつけていただけというのは流石の奏も頭痛がした。
何せ文香の両親は亡くなっており、叔父も男性のためそこまで気づかず教える事ができなかったのである。
「デザイン性より機能性や肌さわりを重視するあたりが文香よねぇ……。まあ文香がよければそれでいいのだけれど。」
ただ、やはり文香はデザイン性にはあまり興味を示さず、肌さわりなど機能性を重要視する辺りは文香らしいと思わず奏は苦笑いする。
普通の下着だけだけではなく、レッスン用のスポーツブラなども一緒に購入していた。
何せ文香は、極力買い物をしない、そんな暇があったら本を読んでいるという人間なのだ。
ただ、そんな自らを変えようと奏と一緒に服や色々なショッピングを楽しむようにはしているが。
「特にダンスレッスンや体力をつけるためにスポーツブラは必須と言っていいわ。特に文香みたいにスタイルいいと、ね。
レッスン中やライブ中に胸が安定しないと邪魔で集中しないもの。」
「ええ、奏さんから選んでいただいたこのブラは、レッスン中に胸の振動をしっかり抑えてくれてとてもありがたいです。
それより……奏さんは最近お仕事がお忙しくてあまり私の家に来られていないようですが大丈夫ですか？」
誰にも言った事はないが奏は、強い不眠症を患っている。特に、実家でその傾向が強く、つい夜中をふらふらと歩きまわってしまう事もある。
アイドルになってその傾向は多少弱まったが、文香と知り合い、文香と一緒に寝る事によってその症状は劇的に弱まってぐっすりと眠る事ができたのだ。
奏が文香の叔父の家に半同棲生活を行っているのは、この家の温かい雰囲気もあるが、それが一番大きな理由である。
だが、今だ文香と一緒以外では奏は安眠する事は難しい。
特に最近は様々な番組などであちらこちらに出向く事が多く、文香の家に来れなかったのである。その疲れは、奏の体を確実に蝕んでいた。
「……正直、少しきついわね。やっと眠れても悪夢ばかりで寝つきもよくないし、疲れも取れにくいし。
……またここに行ってもいいかしら？」
抱き枕を抱きしめて寝ると安心してよく眠れるというが、もしかしたらその類かもしれない。文香に抱きしめられて眠ると、
不思議なぐらいぐっすりと奏は安らかな眠りにつく事ができるのだ。
柔らかい文香の胸や香りに包まれるととても奏は安心してしまうのである。
「はい、喜んで。ふふっ、寝顔の奏さん、とても無邪気で可愛らしいですよ。」
「も、もう文香ってばそういう事は言わないの！ 全く、私があんな表情を見せるのは文香だけなんだからね。」
くすくす、と笑う文香に対して、奏は思わず顔を赤くする。
普段は他人をからかう事の多い奏がこんな表情を見せるのは新鮮だ。ずっとこんな穏やかな時間が続けばいい、と文香はそんな風に思っていた。
そんな風に思いながら、文香はパジャマに着替えると、自らの布団に横になり、同じくパジャマ姿になった奏を抱きしめる。
以前は文香の部屋は布団以外の場所は全て無数の本で埋め尽くされていたのだが、奏の手によって少しづつ片づけられつつあるのである。
「やっぱり……少し恥ずかしいわね。この姿。」
「ふふっ、私の前では格好つける必要はありませんよ。私は、どんな奏さんでも受け入れるつもりですから。」
そう文香は言いながら、奏を自らの胸に抱きよせると、背中を優しく撫でながら子守歌を歌い出す。
ゆっくりと奏の瞳がゆっくりと閉じ、うとうとしたと思った瞬間、すーすーと安らかな寝息が聞こえ出す。
どうやら、連続の仕事などでかなり疲れていたらしい。
そこに重度の不眠症が重なっているのだ。
いくら器用な奏と言っても倒れても不思議ではない状況である。
「おやすみなさい。奏さん。また明日頑張りましょう。」
―――次の日、カエルラの皆は常務の執務室へと集められていた。
カエルラとして活動は始まったばかりなのに一体何があるのだろう？と皆が疑問に思うなか、常務は口を開く。
「さて、揃ったな。まずはいい方の報告だ。
君たちの新曲が上がってきた。歌詞はまだだがクローネの作曲班に依頼した曲だ。君たちにも満足してもらえると貰う。」
おお、とカエルラの皆から一斉に歓声が上がる。
やはり自分たちが歌う曲があるとないとではテンションは大違いだ。
まだ歌詞は出来上がってはいないが、イントロの部分だけでもその曲のクオリティが分かるという物だ。
私も私もと、曲を聞くためにiPodに群がるカエルラの皆。そして、皆その曲を気に入ったようだ。
「ふむ、まだ歌詞は出来上がっていないと聞いているが……いいね。実にCoolだ。皆もそう思うだろう？」
「はい！ とてもカッコいい曲だと思います！ 文香さんや奏さんはどう思いますか？」
「はい、とても良い曲だと思います。これを私たちが歌えるとは……光栄ですね。」
そんな風に、わいわいと騒いでいるカエルラのメンバーに対して、常務は声をかける。
「基本的には、作詞は作詞家に任せる方針ではあるが、何か入れたいフレーズなどがあるのなら、ユニット内で相談して意見を纏めてから作詞家に提案しろ。
向こうも大変なのだからあまり手間をかけさせるなよ。」
カエルラのメンバーの意見もある程度取り入れる事にしたのは、前回の夏樹たちのロックバンド立ち上げ失敗の教訓からである。
上から押し付けるのではなく、自分たちで行わせる事によってメンバーのモチベを上げる。それが、彼女がシンデレラプロジェクトを見て学んだ事の一つである。
個人的にはシンデレラプロジェクトの理念は受け入れがたいが、彼らが実績を上げていてアイドルたちから評判がいいのは事実だ。
自分の信念については頑固ではあるが、いい所はどんどん取り込んでいく。それが美城常務のいい所である。
「よーし、しゅーこちゃん張りきってきたよ〜。こういうのは文香さんと飛鳥ちゃん得意そうだもんね〜。バンバン力借りちゃうよ〜。」
「ええ、解りました。よろしくお願いしますね。二宮さん。」
「ふっ、任せてくれたまえ。ボクの邪気眼を最大限発揮する時が来たようだ。
しかも、知識と語彙の豊富な文香さんが力を貸してくれるのならこれ以上心強い事はないさ。」
そんな風に、わいわいと盛り上がってるカエルラの皆に対して、常務は冷徹に言葉をかける。
「盛り上がっているのは結構だが、喜んでいる暇はないぞ。
お前たちにはこの新曲を引っ提げて高垣楓とＬＩＶＥバトルを行ってもらおう。」
「―――ッ！」
その冷徹な常務の言葉に、カエルラの皆に動揺が走る。
346プロダクジョントップエースアイドル、高垣楓。346プロダクジョンの中でも最高のアイドルに対して、出来立てのユニットで戦えというのだ。
実際、以前結成したばかりのプロジェクトクローネが彼女にＬＩＶＥバトルで戦いを挑んで手も足も出ずに敗北している。
またその再来を行いたいのか？クローネのメンバーたちの視線がそう暗に常務を非難していた。その非難に答えるように常務は口を開く。
「以前ならともかく、プロジェクトクローネとして成功した君たちならば、
346プロダクション、トップエースアイドル高垣楓に立ち向かえると私は信じている。それでは不満か？」
不満はある。あるが、やはり目を賭けてもらっている以上安易な不満は口に出せない。
せっかくここまで来たのに安易な不満によって、それを台無しにされたくない、と思うのは人情という物だろう、
だが疑問に感じている点はある。それを口にすることならばいいだろう、と奏は判断する、
「でも……常務は何故そこまで楓さんに勝つことにそこまで常務はこだわるのかしら？特に個人的な恨みがある、という訳でもないでしょうに。」
その奏の言葉に、常務は眉を潜めながら全体に対して言葉を放つ。
「まだまだ君たちは分かってはいない。プロジェクトクローネで多少有名になった所で、君たちはまだポッと出の新米だ。
そんな君たちが大々的に宣伝されればどう思う？『あいつらは金でゴリ押しされているだけの能無しだ』こう言われるのだぞ！？」
「「「！？」」」
その常務の言葉に皆は息を飲む。
確かに自分たちがネットの一部ではそう言われている事を知っている。
だがそれが実際に目の前で常務から言われてしまってはかなり衝撃を受けてしまう。
「そういう世間の偏見を吹き飛ばす必要がある。他ならぬ君たち自身の実力でな。
そして、私は君たちならばそれが成し遂げられると信じている。
それには、我々は世間が認めるほどの功績を上げなければならない。
そのための高垣楓とのＬＩＶＥバトルだ。
高垣楓を正面から打倒できるほどの人気と実力を備えていれば、もう誰も君たちにそんな事を言えはしまい。
故に励みたまえ。」
それだけを言い放つと、常務は踵を返しこつこつと足音を立てながら執務室から出ていった。
常務が去った後、カエルラの皆は思わず顔を見回した。
「……どうしましょう。」
「どうするもこうするも……すでに決まってしまっている以上、我々に拒否権はない。
ふっ、この出来立てのユニットでの高垣楓に立ち向かうなんてね。
いいね。その反逆実に嫌いじゃない。」
そんな感じにニヒルに微笑む飛鳥に対して、ありすは、思わず食ってかかってしまった。
「わ、私だって嫌なわけじゃありません！ ただ勝てるかどうかという確率の事を言っているんです！」
「確率！ 確率か！ 確かに勝てる可能性を高めるのは大事な事さ。
でも戦う以上１００％勝てる何てことはありえない。
それこそやってみなければわからないというわけさ。違うかい？」
「それは……そうかもしれませんが。」
そんな二人に対して、周子が手をパンパンと鳴らしながら制止に入る、
「はいはい。お二人さんともそこまで。今やるべき事はお互い仲違いする事じゃないでしょー。
そんなんじゃ勝てる物も勝てなくなるよー。」
その周子の言葉に、二人も渋々とお互い矛を収める。戦う前から喧嘩をしていては到底「あの」高垣楓には勝てないと知っているからだ。
「そうね。それが建設的ね。まずは、センターをどうすべきか決めなきゃ。
楓さんに対抗するためには、それが一番重要よね。」
そう。ユニットにおいてセンターとは、ユニットの顔になるため非常に重要な存在である。
他のユニットでは、センターになるために血で血を争う戦いになる事もあるという。
「あ、しゅーこちゃんは、パスで。ただでさえリーダーで大変なのにこれ以上抱え込むだけのキャパはないかな〜。」
「ふうむ。ならばボクもそうさせてもらおうかな。
何せ厨ニでね。とてもそれほどの大役を担えるほどの実力は持ち合わせてはいない。
自分がその器ではないことは自分自身がよく解っているさ。」
飛鳥のそのセリフに続いて、ありすも言葉も放つ。
「わ、私も、です。私にはとてもそこまでの実力は……。」
「と、なれば私か文香しかいないのだけれど……私は、文香をセンターに押すわ。」
「か、奏さん！？」
その奏の言葉に、文香は驚いた。
アイドルとしての経験や性格から言っても、奏がセンターになるべきだと文香は思っていたからである。
頼りがいがあり、華やかな容貌でミステリアスアイズという楓とのユニットも組んだ事もあり、
プロジェクトクローネの顔役とも言える彼女がセンターならば楓に十分対抗できる、と文香はそう思っていたのでこれは予想外の発言だった。
「文香は自己評価が低いから自覚はないかもしれないけど、文香のルックスは十分武器になるのよ？
あの高垣楓に負けないほどのインパクトがね。
それを利用すれば世間の注目を一気に集める事ができるわ。こういうのはね初めのインパクトが重要なの。」
「そ、そういう物なのでしょうか……？でも、私なんかがセンターという大役が務まるとは到底……。」
動揺している文香に対して、他の三人は異論を挟まずあっさりと賛同する。
「それじゃ、咲いてｊｅｗｅｌは文香ちゃんセンターでいいかな〜。
楓さんに対抗するためにはまずはビジュアル最優先にする必要があると思うし。」
「そうですね。異論はありません。」
「ないね。文香さんの美しさはボクも認める所だ。」
そのあまりにあっさりとした承諾に文香は思わず驚いた表情を浮かべる。
「え？ あ、あの……いいのでしょうか？
センターというのはその……それに重要なポジションなので他のユニットでは熾烈を極めると聞きますが……。」
その文香の言葉に、奏は言葉を返す。
「さっきも言ったでしょう？楓さんに勝つためには文香のルックスで注目を集める必要があるの。
これは、彼女に勝つための戦術の一環よ。それに異議を唱える物はいないわ。」
プロジェクトクローネは、流石美城常務が選んだだけの事はあって、非常にビジュアル性の高いアイドルたちばかりである。
だが、その中でも文香のルックスはひときわ目を引く物があった。
ネットでも、当時まるで彗星のように突如として現れた彼女に話題沸騰しており、今だに、彼女の人気は特に男性を中心に非常に高い。
これを生かさない手はない。
「ですが、私は一度プレッシャーで倒れてしまった身です。そんな私がセンターなど務まるとは到底……。」
文香には以前ライブ前に精神的緊張で倒れてしまった事がある。
ユニットのセンターとなれば失敗は許されない。そのプレッシャーから再び同じことになるのではないか、と恐れているのだ。
「だからこそ、よ。ここで成功すれば文香にとっても舞台慣れできるわ。
慣れてしまえば、過剰なプレッシャーに悩まされなくてもすむもの。世の中慣れよ慣れ。」
ひらひらと手を振る奏に対して、文香は戸惑いの声を返す。
「は、はあ。そういう物なのでしょうか……。
ですが、アイドルという職業についている以上、いずれ慣れなければならないのも事実……。
解りました。お受けいたします。」
戸惑いながらもセンターを引き受けた文香だったが、やはりその顔には不安は隠せない。
その不安を吹き飛ばすように、奏は微笑んだ。
「大丈夫よ。文香のあの頃と違ってヴァルキュリアや色々なライブ経験を行ったんでしょう？
以前よりは、遥かに慣れているでしょうから、あんな事は起きないわよ。
それに私たちも、全力でサポートするしね。」
「は、はい！ そうです！ 二度とあの時のようには！
文香さんだってヴァルキュリアなどで何度もステージに立って慣れています！
私たちもいます！以前のようにはなりません！」
そのありすの言葉に、文香はにこり、とほほ笑みを返す。
「ありがとうありすちゃん。そうですね。私も経験を積みました。
断言はできませんが……以前のようにはならない、と思います。」
「よーし、それじゃレッスン頑張ろかー。休んでる暇はないからねー。」
その言葉に、おー！とその場にいた皆は一斉に拳を突き上げる。
急ごしらえのユニットではあるが、しっかりとした連帯感は着実に築き上げられていた。
そんな彼女たちの状況を、部屋の外から見ていた今西部長と美城常務はふむ、と顎に手を当てる。
「ふむ、鷺沢は、精神的な弱さを克服できたようだな。
彼女の素質は買っているが、精神的な弱さがネックでしたからね。」
その彼女の言葉に、今西部長も答える。
「確かに、彼女も色々なステージを行ったり、『生存本能ヴァルキュリア』というイベントをこなした事により、大分ステージ慣れしてきたからね。
以前のような事にはならないだろう。まあ、アイドルとして成長してきたという事さ。」
その言葉に、美城常務は静かに頭を下げる。
「……ヴァルキュリアの件ではどうもありがとうございました。」
「何、礼を言うには及ばないよ。プロジェクトクローネとシンデレラプロジェクトの融和は私も好ましい所だからね。
しかも、それが大成功に終わったのなら言う事はないさ。」
プロジェクトクローネとシンデレラプロジェクトは、かつては美城常務とシンデレラプロジェクトのプロデューサーのアイドルへの考え方によって、
一時期冷戦状態だったことがある。
現在ではお互い融和しているが、立場上、美城常務が向こうに頭を下げる訳にはいかない。
そこで以前行われたイベント「生存本能ヴァルキュリア」のためにお互いの間を取り持ったのがこの今西部長である。
『生存本能ヴァルキュリア』はシンデレラプロジェクトの一人、新田美波がリーダーとなり、プロジェクトクローネの文香とありすが加わったユニットである。
結果、ヴァルキュリアイベントは大成功に終わったが、美城常務が今西部長に借りが出来た事には変わりがない。
「しかし君も楓くんにこだわるね。
いや、確かに現状、346プロダクジョンのトップエースアイドルが彼女だけに偏っているのは事実だ。
彼女と、肩を並べるだけの実力を持ったアイドルが複数でればそれは346プロダクジョンにとって大きな利益となる。
確かに君のやり方は正しい。しかし、流石にいきなりハードルが高すぎないかね？
それこそシンデレラプロジェクトをライバルとして持ってきてもいいはずだとは思うが。」
それを聞いた美城常務は淡々と言葉を返す。
「シンデレラプロジェクトですか。アレはクローネとは相性が悪すぎる。
片や大金をかけて華々しくデビューしたグループ。
片や一度追い込まれ、自分たち自身の力で這い上がってきたグループ。
世間一般がどちらを応援するかなど明白でしょう。」
「まあ、その状況を作り出したのは君自身だがね。私の忠告も聞かずに、ね。」
その辛辣とも言える言葉に流石の彼女もしゅん、と肩を落とす。
流石にこの言葉は効いたらしい。しかも自業自得だからなおさらだ。
「それは……流石に反省しています。」
珍しくしゅんとしている彼女を見て、今西部長も苦笑いを浮かべる。
「いや構わんさ。多少マスコミには騒がれたが、結果として君たちクローネとシンデレラプロジェクトは和解した形になったからね。
騒いでいたマスコミも自然と大人しくなったし、結果論として問題はないさ。
さて、彼女たちも頑張っている。私たちも自分の仕事を頑張ろうか。」
「はい、解りました。そうしましょう。」
その今西部長の言葉に、美城常務は素直に頷いた。
やれやれ。いつもこう素直ならこちらも苦労する事はないのだが。心の中でそう苦笑いしながらも、今西部長は彼女の後ろを歩いていった。
そしてレッスンが終わった後。
奏と文香の二人はシャワーを浴びて私服に着替えていつものように文香の叔父の古書店へと向かおうとしていた。
そんな風に、346プロダクジョンの敷地から二人で外に出ようとすると、駐輪場でバイクを傍に置きながら話をしている人たちが目に入る。
それは、向井拓海に、木村夏樹である。
彼女たちは自らのバイクの前で色々話してるのだが、さらにそこに、予想外の人物がいた。それはシンデレラプロジェクトのリーダーである新田美波である。
見た目からして不良と勘違いされやすい夏樹と、実際に不良だった拓海。
その二人に対して良家のお嬢様とも言えるルックスを持つ美波が仲良く談笑しているのは違和感を覚えてしまう。
だが、彼女の全身を覆ったライダースーツと、片手に持っているヘルメット。そして、Ninja 1000と呼ばれる彼女の傍にある大型バイクを見れば何となく想像はつく。
恐らくは、三人でツーリングの話に花を咲かせているのであろう。
シンデレラプロジェクトの一員でもあり、プロジェクトクローネの一員でもあるアナスタシアから、
最近は彼女のバイクの後ろに乗せてもらっていると嬉しそうに話している事を聞いた事がある。
二人はそんな三人を横目で見ながらも傍を通り過ぎて帰路へとついていく。
「……新田さんとあの二人との仲が良さそうなのは、傍から見たら意外に見えるかもしれませんね。」
「最近は皆でツーリングに言っているそうよ。よくアーニャちゃんも後ろに乗せてもらってるみたい。」
一度アーニャを後ろに乗せてバイクを走らせている彼女の姿を見た事があるが、あれはまさしくレーサーだった。
奏と美波は以前、デア・アウローラというユニットを組んだ事もあるため、多少交流があるのである。
文香もありすとのユニットで美波とは交流があるため、よく話す間柄である。
静かで大人しい大学生活を送っている文香と違い、大勢の人と触れ合い、
ラクロスクラブに入って活発的で人生を楽しんでいる彼女は、文香にとってみれば非常に眩い存在だった。
「そう言えば……新しいユニット、デア・アウローラはいかがでしたか？
二人ともお綺麗で思わず目を奪われてしまうほどの素敵なユニットでした。」
デア・アウローラ。
それは美波と奏の新しいユニットである。
男性に人気のある美波と、同性である女性にも人気の高い奏が組んだそのユニットは、新しいユニットながらも人気が急上昇しているユニットである。
プロジェクトクローネのリーダーとも言える奏と、シンデレラプロジェクトのリーダーとも言える美波がユニットを組むという事は、
やはりこの二つが融和しているという事の象徴でもある。
「んー。美波が私を年上だと思って「さん」付けしてきたのはちょっとショックだったわ。
まあ、美波を呼び捨てにした私も私だけど……。でもどうしたの？ いきなりデア・アウローラの事を聞いてきて。」
「いえ、とても素敵で綺麗な二人ですから、二人はお似合いなのではないか、とふとそう思いまして。その……私より、遥かに。」
そんな何処となく不安そうな文香の顔を見て、思わず苦笑いした奏は、そっと優しく文香の手を握りしめた。
ひんやりとした奏の手。だが確かな温もり。その温もりで、不安そうな文香の表情が一気に和らいでいく。
「全くもう。私が一番傍にいて心が安らげるのは文香の傍だけなの。
それが、私にとっての真実であり事実よ。少なくとも、この言葉だけは信じてもらいたいわ。」
「……はい。」
そんな文香に対して、奏はある意味後ろめたい喜びを感じていた。
あの誰に対しても優しいが、どことなく超然とした浮世離れした文香が自分に対して『嫉妬』を覚えているのだ。
それは裏を返せば、文香が奏に対して好意を持っているという確かな証である。
だが、そこで二人ははっ、と気づく。
ここは二人きりのいつも文香の部屋ではなく、346プロダクジョンの敷地内だということを。
周囲の注目を集めている事に気づいた二人は顔を赤くする。
「と、ともかくここから離れましょう。話はそこから、ね。」
「は、はい。」
顔を赤くした二人は手を繋ぎながらそそくさとその場所を離れる。
だが、それでも二人がアイドル同士である以上避けては通れない問題がある。
奏は、それを再度確認すべく文香に話しかける。
「けど、私たちはただ仲がいいだけの関係じゃない。
今は同じユニットで味方同士だけど、また再び『敵』としてアイドルとして戦う事もある。
その『覚悟』が文香にはあるかしら？たった一人でも、また私と戦える覚悟が。」
それは以前、文香が奏にＬＩＶＥバトルで挑んだ時に乗り超えた壁である。
何度味わおうとそれになれる事はない。だがそれでも、アイドルである以上は何度でも戦う事もありうるのだ。
ぎゅっ、と奏の文香の手を握る力が強くなる。それを感じながら、夕日の元を二人で手を繋いで歩きながらも文香は力強く答える。
「……はい、私は戦います。例え相手は奏さんであってでも、です。
それがアイドルであるという運命なら。他人のためでも……奏さんのためでもありません。
私はきっと、私のためだけに新しい世界を見たいだけ、素敵な世界を見たいだけなのです。
世間一般では、きっとこのような感情をエゴと呼ばれるのでしょう。」
その文香の言葉に、奏は嬉しそうに穏やかに微笑む。
「エゴイスト上等じゃない。いい、文香。アイドルなんて物は、エゴイストじゃないとやっていけない商売なのよ。
だって、トップアイドルはただ一人。
私たち皆それを巡って争うライバルだもの。そりゃ、普段は仲がいいに越した事はないけれどね。
仕事の事になれば話は別だもの。」
「そういう……ものなのでしょうか？」
きょとん、と小首を傾げる文香に対して、奏は微笑みながら言葉を返す。
「そうよ。私は私のやりたいようにやる。文香は文香のやりたいようにやればいいわ。
それで道が交わってお互い協力しあればそれでいいし、異なる道を歩むのならそれでもいい。
それが多分、ユニットとしては、アイドル同士の関係としては最善なスタンスだと私は思うわ。」
その静かで決意に満ちた奏の言葉に、文香はおずおずと口を開く。
「それでは……今私のやりたい事は、より奏さんと仲良くしたい事だと言ったら奏さんが怒りますか？」
その予想外の文香の言葉に、奏は多少顔を赤くしながら困惑する。
「え？ そ、そう来るの？ま、まあ好きにすればいいんじゃないかしら。
うん、文香と仲良くできるのは私も嬉しいけれど……。
ご、ごほん。それはともかく、強くなったわね。文香。うん嬉しいけど複雑な気持ちかな。
何というか……子供が親離れしたようなそんな気分というか……。」
その言葉に、文香が珍しくすねたように頬を膨らませる。
「もう、私の方が年上なんですからそんな事言わないで下さい。」
そんな子供のような表情を見せる文香に対して、奏は思わず明るい笑顔を見せる。
「ごめんごめん。でもアイドルとしては私の方が先輩でしょ？後輩が成長してるのは嬉しいというか、うん。
やっぱり文香が強くなってくれるのは嬉しいな。初めて古書店で文香を見た時は綺麗すぎて消えてしまいそうだったもの。
……いえ。何でもないわ。今日は美味しい物作ってあげるから、早く帰りましょ？また明日も大変そうだし。」
最近はカエルラのレッスンが厳しく文香が読書できる時間が少なくなっているのは奏も感じていた。
文香には体力的な問題もあるため、厳しいレッスンが終わった後は食事と風呂に入るとすぐに布団に倒れ込んでしまう。
そんな状況では読書をする時間が減ってしまうのも当然だった。メンタルが人間の肉体に与える影響は大きい。
気力が充実していれば良いパフォーマンスができるが、気力が足りなければ良いパフォーマンスを行う事は難しい。
文香にとって、その気力を充実させる手段が読書なのである。丸一日古書店に籠って本を読みふける。
これこそ文香が最も充実できる時間であり、次の仕事も頑張れる気力を補充できる手段なのである。
「文香の方は大丈夫なの？ オフの日に読書できないと精神的につらいんじゃない？」
「まあ……多少は。ですが大丈夫ですよ。
このようなお互い力を合わせて新しい目標に立ち向かうという新しい体験を行っていますから。気力自体は問題ないです。」
そこで文香は、一旦言葉を切って奏を心配する言葉をかける。
「それより、最近奏さんはお疲れのようですが、きちんと眠れていますか？
もしよろしければまた添い寝などいかがでしょうか。
ふふっ、寝顔の奏さん、とても無邪気で可愛らしいですよ、」
そんな風にくすくす、と笑う文香を見て、奏は思わず顔を赤くする。
基本照れた時は耳を赤くするだけなクールな奏が、ここまで感情を露わにするのは文香の前ぐらいである。
「も、もう。文香ってば。こんな所でそんな事言わないの。
ほら、行くわよ。明日も厳しいレッスンなんでしょうから早めにしっかり休みましょう。」
「はい。奏さん。」
二人の少女は夕日に照らされながら、手を繋いで文香の家へと歩いて行った。
そして、奏と文香の予想通り、厳しいレッスンは続いていた。
クローネでも対抗できなかった高垣楓に対して、まだ出来たばかりのユニットであるカエルラでＬＩＶＥバトルで戦いを挑もうというのだ。
このままでは、以前クローネで戦いを挑んだ時に再来になりかねない、とクローネの奏や文香などは危惧していた。
「鷺沢！ 笑顔を忘れるな！ 指先一つ一つにまでしっかり意識しろ！
表情の変化も忘れるな！」
とりわけ、センターである文香のレッスンは厳しかった。
だが、圧倒的なビジュアルを持つ楓に見た目のパフォーマンスで対抗するためには、
高いビジュアル性を持つ文香を全面に押し出して注目を集める必要がある。
そうでなければ、あっという間に楓の圧倒的ビジュアルに飲み込まれてしまうだろう。
だがそれは、ただでさえ体力がなく、精神的プレッシャーを受けやすい文香にとっては、多大な負担になりかねないという事でもある。
「はぁ……はぁ……。」
「大丈夫？ 文香？ ほらきちんと水飲んで。汗拭いて。
水飲まないと脱水症状になるわよ、」
実際、ここはベテラントレーナーこと青木聖も悩み所だった。
あまり過負荷をかけては文香が肉体的疲労、精神的プレッシャーで本番前に倒れてしまう。
何せ文香はカエルラのセンター。もっとも目立つ立場なのだ。
彼女のパフォーマンスが不十分ならばそれはユニットとして大きく見劣りしてしまう事になってしまう。
どこまで彼女が体力的に行けるのか、今は慎重に見極めている最中なのである。
「よし！ 休憩は終了だ！ 再度レッスンを始めるぞ！」
咲いてｊｅｗｅｌの曲も上がってきて、それに合わせてレッスンをしているカエルラの皆。
咲いてｊｅｗｅｌはロック系統の曲ではないため、ダンスの激しさはそれほどではない。
だが、見栄えを重視している曲であるため、指先一つですら緩める事はできない。そのため、自然と凛、とした表情になってしまう事が多い。
「―――。」
その文香の凛、とした横顔。
普段の文香からは決して見られないその横顔に、奏の胸は思わず高鳴った。
生存本能ヴァルキュリアで培われた彼女の凛、とした表情は奏の心を捕えて放さなかったのだ。
(文香には内緒ではあるが、ヴァルキュリアの画像などを自らのスマホに保存してある）
元々、文香の綺麗な顔立ちは奏の好みであり、そんな彼女の凛々しい表情とあれば、
それは奏の好みがそのままカタチになったような物である。
「速水！動きが遅れているぞ！ぼんやりするな！」
そんな奏に対して容赦なく聖の叱咤が飛ぶ。
ほんの少しの動きの遅れだが、それが観客から見たら大きく影響してしまう事も少なくない。
ダンスにおいても要領良くこなして覚えもいい彼女にとって、トレーナーからそんな事を言われる事は珍しい事である。
そして、休憩に入った時、文香は自分の汗を拭きながら奏に尋ねてくる。
「あの、奏さん、私の方をご覧になって動きが遅れていたようですが、
私の動きに、どこかおかしいところがありましたか？」
その文香の言葉に思わず奏はどきり、とする。
てっきり見えないと思っていたが、何となく異変は感じられたらしい。
ここで誤魔化しても仕方ない。奏は、文香に素直に感じた事を言う事にした。
「いえ、文香の動きにおかしいところはないわ。強いていえば、文香の表情に驚いただけよ。」
「表情……ですか？」
きょとん、とした文香に対して、奏は微笑みながらも言葉を続ける。
「そうね。文香ヴァルキュリアイベントのイベントの時に凛とした表情の訓練を散々したじゃない。
その顔にちょっと見惚れてしまって、ね。」
その奏の言葉に、いまいちピンと来ていないのか、はあ、と文香は漠然とした答えを返す。
「はあ、自分ではよく解らないのですが……奏さんがお好きならいくらでおお見せしますよ？私の部屋、ではありますが。」
その言葉に、思わずどきり、とする奏。
文香は時々こういう全く無自覚だが奏のどきり、とする言葉を言う。
奏の周囲には存在しない、その真摯で心に入り込む言霊に、奏の心は惹かれてしまうのだ。
「も、もう。文香ってばこんな所でそんな事言わない。
それよりしっかり休んでしっかりストレッチするわよ。疲れが残ったら大変だからね。」
「おやや〜。珍しいですな〜。奏が顔まで真っ赤にするなんて。」
「もう、周子もからかわないで。で、何の用なの？」
そこで奏はペットボトルの水を飲みながらの周子は一つの提案をする。その提案に対して、奏は頷きを返す。
「いいんじゃないかしら？ 反対する理由は何もないわ。
後はオーバーワークにさえ気をつければね。」
「よっしゃ、決まりやね〜。ほな、トレーナーに行ってくるわ。もう文香さんには言ってあるから満場一致と言う事で。」
「……待ちなさい。周子。貴女先に文香に話を通したという事は私が反対したら文香の名前を使う気だったでしょう。」
「ばれたか〜。ま、結果オーライと言う事で！ それじゃ！」
それだけを言うと、周子は奏から逃げ出すようにしてさっさとトレーナーの元へと向かっていった。それを見て、奏はやれやれ、と思わず肩を竦めた。
「何？オフの日に自主練をしたい？」
レッスンが終わった後、カエルラの皆は、ベテラントレーナーの前に並んでそう提案した。
周子が皆に提案して意見を纏めていたのもカエルラメンバー皆の総意であるという事にしたかったためである。
彼女たちもレッスンにより実力をつけている事は実感しているが、
やはり今の現状ではまだまだトップアイドルである楓に対抗できていない、という事は肌で実感できる。
それは、皆も何となく分かっていたようで、その皆の意見を取りまとめ、ベテラントレーナーに提案したのが周子である。
「そうさ。今だボクたちの実力が楓さんに及ばない事は我々自身が一番よく解っている。
このままでは勝てない、という事もね。負け戦をのうのうと眺めているのは趣味じゃない。ましてや我が事ともなればね。
つまりは、だ。簡単にいうと負けたくない、というそれだけの話さ。」
その飛鳥の言葉に、ベテラントレーナーは思わず苦笑いを浮かべる。
せっかく文香を休ませるためにわざわざオフの日を作ったのにこれでは意味がない。
だが、これだけの熱意があれば、高垣楓と渡り合うのも不可能ではないのかもしれない。
しかし、その分さらに文香や皆の体力について細心の注意を払う必要がある。
そんな時に、呑気に自分だけ休んでいるわけにはいかない。トレーナーはそう決断すると、皆に向けて宣言する。
「全く……お前たちは仕方のない奴らだ。
よし分かった。許可しよう。私も休日返上でお前たちに付き合おう。
私のいない時に倒れられて問題でも起こされたら困るからな。」
「「「「「はい！ありがとうございます！」」」」」
苦笑いするトレーナーに対してカエルラの皆は一斉に頭を下げる。
思う所はそれぞれ違っても、負けたくない、という思いは皆同じなのだ。
一旦水分補給をするためにレッスン室から離れ、自動販売機でミネラルウォーターを購入し、
ペットボトルのミネラルウォーターを口にしている奏は、同じくミネラルウォーターを飲んでいる文香に話しかける。
「全く、また楓さんと戦う事になるなんてね。以前、クローネの皆はボロ負けしたっていうのにね。」
「ええ、確かに以前クローネは楓さんに勝てずに全敗してしまいました。それは事実です。」
以前プロジェクトクローネは楓に対してＬＩＶＥバトルで戦いを挑んだ事がある。（文香とありすは、戦うのにまだ未熟である、と除かれたが）
結果は圧倒的敗北。文香も会場から見ていたが、その圧倒的パフォーマンスにはやはり度肝を抜かされた事は事実である。
あれから多少アイドルとしての経験は積んできているが、今だにあれだけのパフォーマンスに勝てる自信はない。だが、それでも文香は穏やかに微笑んだ。
「けど……それでも、私たちは『負けません』よ。
それは、楓さんに立ち向かうなんて無謀もいい所だとは私たちも理解しています。
けれど、『負けてもいい』なんて思っている人は、ここには一人もいませんよ。」
彼女の瞳は、レッスン室で熱心にレッスンを行っている皆に向けられていた。
そう、皆今日はオフだというのに自主的に訓練を行っているのだ。
普段は、オフの日は古書店に籠って一日中本を読んでいる文香ですら自主的に、である。それだけ、彼女もやる気がある、という事だ。
そんな文香に対して奏は意外そうな視線を向ける。
「……意外ね。文香が闘志をそこまでむき出しにするなんて思わなかったわ。
文香は、もっと超然としていると思っていたわ。」
文香は、とても勝負事にこだわる性格には見えない。負けたら負けた。勝ったら勝ったてもどうでもよさそうに超然として振る舞う。
そんなイメージがあったからである。
「超然といいますか……私自身は、私の価値は紙虫程度しかない、と思っています。
ですが、やはり、こんなに頑張っている皆があっさりと負けるのは感情的に納得しがたい物があります。
私自身のためではなく、皆のために頑張りたいのです。」
それを聞いて、奏は頷く。
「なるほど。自分自身のためじゃなくて、私たちユニットのために負けたくない、か。確かに文香らしいわね。でもそれでは……。」
「ええ、理解しています。
私たちアイドルは、自分自身のために戦うのが本分。目指すべきはトップアイドル。
例え、今はユニットを組んだ共に戦う仲間であっても、いずれはお互い競い合うライバルになるかもしれません。ですがそれは……。」
「そうね。それは未来の話でもしもの話だものね。どうなるかは分からないわ。
そんなどうなるか分からない未来の話よりも、今は勝つためにお互い皆で頑張りましょう。」
その言葉と共に、ペットボトルの空をゴミ箱に捨てると、奏は文香に対してそう笑いかけた。それに対して、文香も、はい、とほほ笑みで答えた。
「……ううむ。」
場面は変わり、ベテラントレーナーこと青木聖は、自らの自宅で資料の束とにらめっこをしながら顰め面をしていた。
そんな彼女を気にかけたのか、ルーキートレーナーこと青木慶は、姉に話しかける。
「どうかしましたか？姉さん。」
「いや、カエルラのメンバーのトレーニングだがな。
さすがにこのトレーニング量はな……。他のアイドルは何とかなるだろうが、鷺沢にとってはオーバーワークかもしれんな。
他のアイドルよりも休憩を取らせているつもりではいるんだが、鷺沢も鷺沢でああ見えて頑固な所があるからな。」
そう言いながらベテラントレーナーこと青木聖は、トレーニングに関する資料をパラパラとめくる。何せ人間の体調は資料だけでは読み切れない。
トレーナーには人間観察のスキルも重要視されるのだ。
そこがトレーナーとしての仕事の面白い所でもあり厄介な所でもある。
特に文香のような体力のない人間には細心の注意を払わなくてはならない。
「ふふっ、そう言いながらも姉さん楽しそうですよ。」
「まあな、アイドルたちが成長していく楽しみ。そしてそれを指導していく喜び。
それはプロデューサーたちではできない、トレーナーとしての楽しみというヤツだ。
当然、苦労は多いがな。今回だって休日返上でレッスンだ。全くあいつらにはほとほと手を焼かせられる。」
そう言いながらも楽しそうな姉を見て、ルーキートレーナーはにこにことほほ笑む。
彼女や姉たちのそういう顔が好きで、ルーキートレーナーもトレーナーになる事を志したのだ。
「休日出勤の時はお弁当持っていきますね。家事の事はしばらく私がやりますから姉さんはカエルラの皆のトレーニングに集中してください。」
「すまんな。しばらく手間をかけさせる。」
◆
そして、それはトレーナーだけではなかった。美城常務も同様である。
高垣楓とカエルラとのライブバトルの前にして、企画全体を取りまとめなくてはいけない常務としての仕事と、
彼女直属のアイドルである鷺沢文香としてのプロデューサーでもある彼女は、両方の仕事を取りまとめなくてはならない。
流石に自分一人では手が回らないと判断した彼女は部長に手助けを求める事にした。
「すみません。このような形で手助けを求めてしまって。」
「何、構わんよ。むしろ嬉しいぐらいさ。君は他人に頼らなすぎだからね。
これくらいでちょうどいい。だが、今のままでは君に負担が大きすぎるだろう？
文香くんにプロデューサーをつける気はないのかい？」
その部長の言葉に、美城常務は軽く頭を振る。
「彼女は優秀な人材です。
まだまだ強度は、私が求めている地点には到達してはいませんが、アイドルとしての素質はかなりの物だと思っています。
下手にプロデューサーをつけるよりも、手元に置いておきたいというのが本音です。」
「確かに。君のいう事は正しい。
彼女のアイドルとしての素質は磨き上げればトップアイドルにも匹敵するだろうね。それを自分の手元においておきたい、というのもね。
……それで、今回のイベントと曲の名前は決まったのかい？」
「はい、『咲いてｊｅｗｅｌ』と名付けました。すでにカエルラメンバー了承しました。それに相応しい新衣装も用意してあります。」
その衣装の資料などを読みながら今西部長は感嘆の声を上げる。
「ほう、これは……。流石と言わざるを得ないね。
これならもしやすると、あるいは。」
「ええ。出来たばかりのユニットで、まだ新人の彼女たちがトップエースアイドルに戦いを挑む。
実に『燃える』シュチュエーションと言えるでしょう。」
その言葉に、今西部長は常々疑問に思っていた事を口に出す。
「君は、高垣くんを346プロのトップから引きずり落とすつもりなのかい？」
「まさか。そんな事はありません。一度仕事を断られた程度で一々根にもっていたら到底仕事などできません。
私はただ、彼女に匹敵するアイドルを生み出したいだけの話です。
高垣楓ほどのクラスのアイドルが複数いれば、それは346プロ自体の実力の底上げになり、利益もさらに上がる。
そして、速水と鷺沢にはそれだけのポテンシャルがある。私はそう信じています。」
その言葉に、今西部長はどこか安心したようにため息をつく。
「やれやれ。君も随分と彼女たちを買っているねえ。まあ悪い事ではないさ。ただ……。」
「分かっています。二人ともまだ私が求める強度には足らない。
精神的に脆い部分がある。そこへのフォローが必要だという事は理解しています。そして、現在カエルラの皆がオーバーワーク気味である事も。
私もトレーナーも彼女たちの体調には気をつけているつもりですがこればかりは……。まあ、こちらでも何かしら手を打っておきますが。」
「うん、僕の方でも気をつけておくとしよう。さあて、彼女たちが思う存分戦えるように、我々も書類という敵と戦おうじゃないか。」
そして、その翌日。
そこには街に出かけている文香と奏の姿があった。
トレーナーと美城常務直々の命令により半ば無理矢理休みを取らされてしまったのである。
「あの、いいのでしょうか……。今日は特別に休みなどと……。」
「いいんじゃない？ トレーナーや美城常務から許可は出てるんだし。
というか、最近の文香はオーバーワークぎみなんだから休め、という事実上の命令だと思うわよこれ。
文香がきちんと休むようにお目付け役として、私も休みの許可も出たしね。久しぶりの休日、思う存分羽を伸ばしましょう。
とは言っても、あまり連れまわすのは精神的肉体的に負担になるでしょうから、
午前中にさっとショッピングをすませて午後はのんびりしましょう。」
そう言いながらも奏は文香の手を引っ張りながらも、洋服店の方へと歩いていく。
どうやら彼女もよっぽどストレスが溜まっていたらしい。
おそらく今回の休みは文香だけでなく、奏のストレスを緩和させる目的もあるのだろう。
元々、女性というのはショッピングでストレス解消をする事が多い。（文香は数少ない例外である。）
喜々としている奏に逆らえずに、文香はブティックショップへと足を運んでいた。
以前、文香が新しい世界に飛び込むために、奏は文香の服を選んであげた以来、奏は文香を連れてたびたび洋服店に足を向ける事になった。
「うーん、文香に似合いそうな服装は……やっぱり派手目な服装よりも清楚系の服装がいいかしら。」
「か、奏さん。あまり派手な服はちょっと……。」
「分かってるわ。文香の好きそうな服をチョイスしてあげるから。」
こっそりと文香はため息をつく。こうなってしまった奏は止められないからだ。しばらくは着せ替え人形の気分を味わうしかない。
奏に進められるまま、様々な服を着せられていく文香。
ファッション誌はほとんど読んだ事のない文香にとってはそれは未知の衝撃だった。
次々と大丈夫なのかしら？と文香が心配になるほどの量の服を購入していく奏。
だが、彼女……というか女性にとってはこれでも軽い方である、と数多くのアイドルを知った文香にとっては新しい事実だった。
「ごめんね。文香。付き合わせて。」
「いえ……。私もいい気分転換になりましたから。
では……帰りましょうか。」
そう言いながら、文香と奏は紙袋を抱えながら文香の叔父の家へと足を向ける。もはや、あの家は文香の家というだけでなく、
『二人の帰るべき場所』になっているのだ。と、ふと何かを思い出したように、奏は手にした紙袋から
綺麗にラッピングされた小包を取り出して文香に手渡す。
「それとこれは私からのプレゼント。よかったら貰ってくれると嬉しいわ。」
「そ、そんな……。年下の未成年の方から贈り物なんて……。いただけません。」
その綺麗にラッピングされた小包を一度は返そうとする文香だったが、
奏の手にも同じラッピングのされた小包があるのを見かける。それはつまりは―――。
「ふふ。文香は私とお揃いのネックレスは嫌いかしら？
まあ、私はこれでも一応文香の先輩だし、可愛い後輩に送り物、という形ではいけないかしら。」
それを聞いた文香は、顔を少し赤くしながら唇を尖らせる。
文香がそんな子供らしい表情をするのは珍しい。
「奏さんは……ずるいです。そんな言い方されたら断れないじゃないですか。」
「ふふ、ごめんね。でもこうでも言わないと文香プレゼント受け取ってくれないんだもの。
文香っては見た目と違って頑固だし。その服も文香の自費で買うつもりなのでしょう。」
そう言いながら奏はちらり、と自分たちの持っている紙袋を見る。
元々、ファッションに疎い文香は奏に頼んで服を購入している。そのため、全て自腹で払うつもりだったのだが、奏が自分の服も購入するから、と半分支払ってくれたのである。
まだ未成年で、しかも年下の奏に払わせるなど文香としては不本意ではあるのだが、奏の方が一枚上手である以上仕方ない。
奏は文香の手にある小包の包装を丁寧に破き、中にある銀色のネックレスを取り出して文香の首にかけさせる。
「これは私たちの信頼のカタチ。私たちはアイドルである以上、一緒に肩を並べて歌う事もあれば、お互いに戦う事もありうるわ。
けれどそれでも―――私たち二人の絆は揺るがない。
その証を文香には渡しておきたいの。受け取ってくれるかしら？ 文香。」
「……はい、奏さん。私は嬉しいです。
その、誰かからプレゼントをされた事はあまりなかったもので。」
目をつぶりネックレスを嬉しそうにいじりながら文香は呟く。
「確かに私たちはアイドルである上、常に価値や評価に左右されます。
ですが、それだけではあまりに無味乾燥だと思うのです。アイドルが描き出す物語、そこに『浪漫』があると私は思います。
そして、そこから紡ぎ出される物語、新しい世界こそが私の求める物だと思います。評価が求められるアイドルの世界では、異端かもしれませんが。」
その文香の言葉に、奏はええ、と頷いた。
「そうね。確かに文香の考えは普通ではないわ。
けどそれでいいんじゃないかしら。ごく当たり前『普通』ではこの世界を乗りきるのは難しい。文香のその考えは、武器になると思うわ。」
「つまりは？」
「以前にも言った通り、文香は文香のやり方でやればいいんじゃないかという事よ。
この世界、個性こそが大きな武器だもの。型にはめられたアイドルほどつまらない物はないわ。
私は私のやり方で戦うし、文香は文香のやり方で戦えばいい。そして、今回はお互いぶつかり合うのではなく、共に肩を並べてステージで歌うユニットという『戦友』だもの。
存分に歌いなさい。文香。貴女の背中は、私が守ってあげる。」
その奏の言葉に、文香の胸に熱い物がこみ上げてくるのが感じられた。文香はかつて奏とＬＩＶＥバトルで戦った事がある。
そんな彼女からここまで認められて、ここまで言われるなど人生で初めての経験だったのだ。
それは、通常の普通の『友達』では得られなかった貴重な体験だったろう。
「はい。ありがとうございます。奏さん。
そう言っていただけてとても……胸が一杯です。」
だが、運命はそう簡単にはいかなかった。
楓とカエルラとのＬＩＶＥに向けて様々な事務作業などに追われている常務の元に、一つの連絡が舞い込んできたのだ。
「―――何？鷺沢にインタビューの申し込みだと？」
「はい……。しかもＬＩＶＥバトル前日に。彼女の体力を考えてトレーナーとも相談して前日は完全オフを予定していたのですが……。
かなり大手の取材ですから断りにくく……。しかも前日ともなれば現在の仕事量では常務が付き添う事もできませんから、一人でインタビューを受ける事になります。
彼女の性格から考えると、たった一人で見知らぬ相手からインタビューされるのは多大な精神的負担になるのではないか、と。どうしましょうか？」
それをちひろから聞いた常務は考えこむ。
確かに大事を取るのなら文香は休ませるべきだ。だが、常務としての立場と彼女のプロデューサーとしての立場からすれば彼女の宣伝となる絶好の機会を逃したくない事も確かだ。
即断即決が常である常務だが、彼女にしては珍しくしばし悩んだ後で言葉を放つ。
「やむを……得ないか。鷺沢に連絡を取ってくれ。ただし、今現在鷺沢の体調に変化が出ている、というのなら、インタビューはキャンセルするように伝えてくれ。」
「はい、解りました。」
―――そして、その判断は最悪な事態へと繋がっていく。ＬＩＶＥバトル当日の朝、ＬＩＶＥに向けて会場内を見回っていた美城常務の携帯にちひろから連絡が入る。
「もしもし。私だ。……何？文香が？倒れたという訳ではないのだな？
ふむ、分かった。私が直々に迎えに行こう。大至急車を回せ。」
急いで会場から車を手配してとある場所へと向かう常務。
そこは文香の家近くのとある病院だった。
家から出ようとした際、ふらついていたという事で、心配した叔父が彼女を病院へと連れていったのである。
結果は、軽い疲労状態にあるとの事だ、と病院に駆けつけた常務は医師から説明を受けた。
「軽い過労ですね。点滴を打ったからもう大丈夫でしょう。
念のため後一日様子を見て……。」
「それは……できません。」
そこに居たのはベッドで寝ているはずの文香だった。
「ちょっと君！ まだ寝ていなくては！」
その医師の言葉に、文香は左右に頭を振る。
「いいえ、行きます。行かねばなりません。私は……もう二度と同じ事を繰り返すのは嫌なのです。
それに、ステージの上で共にレッスンを頑張った戦友が戦っています。私は、それを見捨てる訳にはいきません。」
凛、とした表情の文香。そこにはかつての弱弱しさはどこにもなかった。
その決意に満ちた表情に、常務は頷く。
「―――行けるな？鷺沢。」
「はい。当然です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません。常務。」
「―――車を回せ。大至急会場へと向かう。それでは、失礼します。」
そんな二人を見て、医師は呆れたように軽く頭を振った。だが、運命は彼らにさらなる苦難を与えていた。
運転手付きの車でＬＩＶＥ会場に向かおうとしていた彼女たちだったが、
運悪く高速道路の渋滞に巻き込まれてしまったのである。
思わず舌打ちをする常務は携帯を取り出すと、奏の元へと電話をかける。
『私だ。そちらの方はどうなっている？』
「はい、こちらは大丈夫です。問題はありません。その、文香の方は……？」
『鷺沢は大丈夫だ。問題はない。到着さえできればＬＩＶＥもできるだろう。
だが渋滞に巻き込まれてしまってな。このままでは……。』
「……分かりました。こちらでできる限り時間を稼ぎます。
あ、いえ。すみません。そちらの正確な位置は解りますか？」
『？ まあ、大まかな位置ならばな。それがどうかしたのか？』
「いえ……。もしかしたら状況を打開できる『策』があるかもしれません。また電話します。」
そう言うと、奏は携帯の電話を切った。
そして、すでに集合しているカエルラのメンバーをぐるり、と見渡す。
皆、表情に不安は隠せない。センターである文香がいない以上、到底あのトップエースアイドルである楓に対抗はできない。
それどころか客が満足するＬＩＶＥを行えるかどうかすら不安がある。
「……さーて、どうしようか。奏ちゃん。」
皆を代表してそう口火を切ったのは周子だった。その周子の問いに対して、奏は毅然と答える。
「どうしようも何もないわ。時間を稼ぐ。一分一秒でも多く。文香が到着するまでに。文香は来るわ。必ず。」
その奏に対して、ニヒルな笑みを浮かべながら答えを返すのは飛鳥だ。表面上こそニヒルではあるが、やはり彼女も冷や汗と顔色が悪いのは隠せない。
「と、なるとやはりトークで時間を稼ぐしかないようだね。
幸い、カエルラと楓さんのＬＩＶＥバトルは一番最後のトリだ。
多少は時間はあるが……それでもね。やれやれ。アドリブは苦手なのだがね。仕方ないな。」
「それだけ口が回ってアドリブが苦手なんてよく言えますね……。」
「これでも厨二だからね。経験不足の１４歳に多くを求められても困るよ。」
そんないつも通りのやり取りに、周子も冷静さを取り戻したのか、
二人のやりとりを見てくすくす、と笑う。
「やれやれ。お二人さんはマイペースやねー。ま、そんな二人にしゅーこちゃんも安心できるかなー。
さて、それじゃ文香ちゃんが来るまで、皆で頑張って時間稼ぎしましょかー。そのための会議を……。」
「ふふっ。中々面白そうな事をしようとしてますね。皆さん。」
唐突なその声に、カエルラの皆は驚いて振り向く。そこに立っていたのは、ステージ衣装に身を包んだ高垣楓だったのだ。
「楓さん！？ どうしてここに！？」
真っ先に声を上げたのは、奏だった。
奏と楓は『ミステリアスアイズ』というユニットを組んだ事もあり、多少は交流もある。（今回は敵同士ではあるが。）
そんな驚いた表情を見せる奏に対して、楓はにこり、とほほ笑みかける。
「話は聞かせてもらいました。文香ちゃんがこちらに到着するのが遅れるかもしれないので、時間稼ぎをすればいいんですね。
皆さん、私も協力させてもらってもいいかしら？」
その楓の発言のカエルラの皆は驚きを隠せなかった。今の楓はカエルラと戦ういわば敵という立場である。
そんな彼女がカエルラに手を貸すという事は、彼女たちにとっては理解できなかったのである。
「で、でもどうして楓さんが私たちに協力してくれるんですか？
今の私たちは敵同士なのに……。」
ありすのその当然とも言える疑問に対して、楓は静かな威厳を保ったまま答える。
「確かに今の私たちは戦う運命だけど、それ以前にアイドルですもの。
アイドルである以上ステージは盛り上げなくてはいけない。
舞台を冷め切ってお客様の心が離れてしまっては元も子もないわ。
それが理由では不満かしら。」
微笑みながら静かに答える楓に対して、奏は頷きながら答えを返す。
「いえ、十分です。お願いします。楓さん。ですが。」
「ええ。分かっているわ。慣れ合うつもりはない。でしょう？
文香ちゃんが来たら正々堂々、決着をつけましょう。一時休戦、と言った所ね。
そうね。少年漫画風にいうなれば、『完全な実力を発揮できない相手と戦っても面白くない』と言った所かしら。
それでは一緒にＬＩＶＥ，頑張りましょう。」
それだけを言うと、彼女はにこりと笑い、颯爽とコツコツと足音を立てながらその場から立ち去っていった。
その後ろ姿を見て、思わずありすと飛鳥は見惚れてしまう。
「……参ったね。アレがトップアイドルという物か。見事な物だ。」
「え、ええ。凄いです。文香さんや奏さんとは違った大人っぽさ……。憧れてしまいます。」
そんな二人に対して、周子は声をかける。
「こーら、今から魅入られてどないすんねん。私たちは、これからあの人と戦うんやでー。」
す、すみません、と謝る二人を見て微笑みながら、奏はその場から離れて一人の人物を探してその人物に話しかける。
「美波。話があるの。いいかしら？」
―――美城常務の車の中。
そこには不安に奏からプレゼントされた銀のネックレスをいじっている文香の姿があった。
最近では、不安な事があると、奏とお揃いのこのネックレスをいじる癖が無意識についているのである。
そんな文香の携帯（最近、奏やありすに色々に教えてもらってスマホにかえたばかりである）の着信音が鳴りだす。
わわわ、と思わず文香は自分の携帯をお手玉してしまう。奏と一緒にガラケーからスマホに携帯を変えたばかりの文香だったが、
元々携帯自体滅多にかけない文香にとっては、今だにスマホは不慣れで恐る恐るいじっているような状況である。
「鷺沢。私が変わろう。いいか？」
見るに見かねた常務は、文香の代わりに文香のスマホを手に取って電話に出る。
「もしもし、美城だ。鷺沢の代わりに電話に出ている。ふむ、君はシンデレラプロジェクトの新田美波か。
何？ しかし……いや、なるほど。それならこちらの位置の正確な特定はできるか。分かった。鷺沢にはそう伝えておこう。」
？と疑問符を浮かべている文香に対して、スマホのＴＥＬを切った常務は、スマホを文香に渡しながら彼女に告げる。
「鷺沢。今からシンデレラプロジェクトの新田美波が君を迎えに来る。
君はそれで会場に迎え。いいな。」
「え？ で、でもどうやってこんな渋滞の中を……。それに私たちの位置が分かるはずは……。」
「それはおいおい解る。君はスマホの電源を切らずに待っていればいい。
いいな。私には構わずに会場に迎え。それが君の使命だ。
……私はシンデレラプロジェクトの信念は受け入れられないが、彼女たちの実力は評価している。やると言ったらやってくれるだろう。」
そう言いながら、常務は静かに瞳を閉じる。
こうなってしまっては文香も大人しく待つしかない。
そして待つ事しばし、バイクのエンジン音が渋滞の雑多な音の中でもこちらに近づいてくるのがはっきりと聞こえてくる。
そして、その音は常務たちの乗った車の横でぴたりと止まり、コツコツ、と車の窓を誰かが叩く音がする。
そこに存在してたのは、ライダースーツにフルフェイス、Ninja1000の大型バイクに跨った一人の女性だった。
その女性の名前を文香は叫ぶ。
「新田さん！本当に！？」
「ええ、待たせたわね。文香さん。さあ、このヘルメットを被って後ろに跨って。常務。彼女は私が会場まで送り届けます。」
いくら渋滞と言ってもそれは車での事だ。
大型とはいえ、バイクなら渋滞している車の間をすり抜ける事は十分に可能である。
美波はそれを利用して車の間をすり抜けながら文香の乗っている車の所まで辿り着いたのである。
バイクのリアボックスから予備のフルフェイスのヘルメットを取り出し、窓から文香に手渡す。
文香はちらり、と常務を見るが常務は毅然とした表情で彼女と美波に向けて言い放つ。
「―――任せた。行け鷺沢。貴様がステージに立つ事こそが最優先事項だ。
新田。後は任せたぞ。」
「はい！」
髪を纏めて何とかヘルメットを被った文香は、車のドアを開けて外に出ると、
そのまま大型バイクの後ろに跨り、しっかりと美波にしがみつく。
「行くわよ文香さん。しっかり捕まっていてね。」
そう言いながら、フルフェイスのバイザーを下した美波は、
バイクをアイドリング状態から二、三回空吹かしすると、そのまま渋滞している車の横を次々とすり抜け、高速道路を降りて、一般道へと入る。
そして、一般道に入った瞬間、彼女はバイクのスロットルを一気に速度を加速させる。
「〜〜〜〜！」
その急激な加速に驚いた文香は、思わず必死に美波の腰にしがみつく。
バイクの後ろに乗ったのは初めての文香は、そのあまりの速度に美波の腰にしがみつきながら何とか言葉を絞り出す。
「あ、あの……！ 新田さん！ もう少し速度を……！」
猛烈な風にかき消されないようにフルフェイスのヘルメットを被りながら必死に声を出す文香だったが、
ライダースーツで同じくフルフェイスの美波はその文香の叫びに、にこり、と笑いながら振り返りもせずに疾走しながら言葉を返す。
「文香さん、こういう時はこう叫べって夏樹ちゃんに教わったのよ。」
彼女はバイクのギアを最大に操作すると、一言だけ叫ぶ。
「Rock'n'Roll!」
その叫びと共に、美波はバイクのスロットルを全開にした。さらに上がる速度。その速度に、文香は無言の悲鳴を上げた。
一方、車の中に残っていた常務は深々とため息をついて車の座席に深く座り込む。
「全く、速水め。鷺沢のスマホにＧＰＳ追跡アプリを入れているとはな。
まあそのお陰でこちらの位置情報が新田に分かって助かったがな。」
そう、奏は文香が携帯をスマホに変える際に、ありすと相談してこっそりとＧＰＳ追跡アプリを入れていたのである。
そのため、美波は文香たちの乗る車の正確な位置が把握でき、迎えに行く事ができたのである。
アイドルとしての自覚こそある物の、自らの人気さには無頓着な文香が何かのトラブルに巻き込まれるのではないか、と心配した奏とありすは文香に秘密でこっそりとアプリを入れており、
それを美波に教えたのである。
まさかこんな場面で役に立つとは奏本人も思っていなかっただろうが。
「よろしいのですか？常務？」
「構わない。鷺沢を舞台の上に送り届けた。それだけで私の仕事は終わった。
―――私の勝利だ。彼女たちが勝つにせよ負けるにせよ、な。
シンデレラプロジェクトには借りができたが……まあいい。私のやるべき事はやった。
後は任せたぞ。カエルラ。お前たちの実力を世間に示してやれ。」
それだけを言うと、常務は静かに瞳を閉ざした。
それからしばらく後。ＬＩＶＥ会場の駐輪場に凄まじいスキール音が響き渡る。
高速で会場の敷地内部に飛び込んできた美波のNinja1000がスライドブレーキをかけながら駐輪場で停止したのだ。
「さ、ついたわよ。文香さん。急いで。」
「は、はい……。美波さん、普段のイメージと異なり、その……とても凄い運転でしたね……。」
文香はふらふらになりながらもフルフェイスのヘルメットを外す。
そんな文香に対して美波はくすり、と笑う。
「今回は非常事態でしたから。普段は安全運転を心がけていますよ。
さ、急いで。もうＬＩＶＥ始まっていますから。
ＬＩＶＥに間に合わない悔しさは私が一番よく知っていますから。」
「はい……！ ありがとうございます美波さん！」
それだけを言うと、文香はフルフェイスのヘルメットを美波に返し走り出す。体力を消耗し、
慣れないバイクに乗って乗り物酔いになりかけながらもふらふらになりながらも文香は走る。
文香は必死に走りながらステージパスを見せてチェックを通り、ステージ裏へと駆け込む。
ステージ裏へ駈け込んで来た文香を見て、カエルラの皆は一斉に歓声を上げる。
「文香さん！」
「文香！」
「―――全く、遅いわよ文香。」
カエルラの皆にもみくちゃにされている文香を見て、僅かに微笑みながらもそう呟く奏。そこには、明らかな安堵の表情があった。
正直、あまりトークが上手くはないありすや飛鳥を含むカエルラでは
ここまで引き延ばすのもギリギリだったのだ。楓の上手いフォローがなかったら客も冷めてしまっていただろう。
そこは流石にトップクラスアイドルと言ってもいいだろう。
「でも！これでようやく私たちカエルラの実力を見せる時がくるんですね！」
「違うね。ありす。こういう時はこう言うのさ。―――さあ！反撃の時間だ！」
おー！とカエルラの皆は飛鳥の叫びに答えて一斉に拳を空に突き上げる。
そんなカエルラのメンバーたちを見て、楓は僅かに安堵の微笑みを浮かべた後、颯爽と踵を返す。文香が来た以上、協力関係もこれでおしまい。
後は正々堂々、ＬＩＶＥで決着をつける。それが彼女、高垣楓の想いだった。
そして、それだけではない。
文香が来た事により一斉に会場のスタッフたちの動きも慌ただしくなる。
「咲いてｊｅｗｅｌだ！ スタッフ準備急げー！」
「照明準備できています！ 曲の準備もできました！」
「鷺沢さんの衣装早く持ってこい！化粧もだ！女性スタッフ手伝ってくれ！」
文香は控室に押し込められると数人の女性スタッフが一斉に着替えを手伝うと同時に、
他の女性スタッフが文香に化粧を施していく。
何せ時間がない。手早く身支度をすませなければならないのだ。
咲いてｊｅｗｅｌの青を基調にした華麗な衣装を身に纏った文香は、凛とした表情をしたままコツコツと足音を立ててステージへと向かう。
その表情や態度には一切の迷いはない。
「―――行きます。奏さん。私の背中は貴女に任せます。」
振り返らずに、後ろにいる奏に対して、文香は真っ直ぐ光あふれるステージだけを見据えて言葉を放つ。
「ええ、文香。貴女は前だけ見て思う存分踊りなさい。
それに、貴女の背中を守るのは私だけじゃないわよ。」
文香のその言葉に対してウィンクしながら答えたのは奏だった。そして、奏の言葉に答えるように飛鳥やありす、周子も言葉を放つ。
「そういう事さ。だが悪くはない。否、むしろ『いい』シチュエーションさ。
ボクは厨ニだが、こういう王道展開は悪くない。」
「そやね〜。リーダーを忘れてもらっちゃ困るわ〜。」
「わ、私だって……！ 絶対に文香さんの足を引っ張りません！」
そんな風に次々と言うカエルラの皆を振り返りながら文香はくすり、とほほ笑む。
そんな文香に対して、奏が歩みを進め、文香と同じ位置に並び叫ぶ。
「行くわよ文香！ステージの上に突っ込むわよ！」
「はい！奏さん！」
その奏の声と共に、奏と文香は走り出し、ステージへと一気に駆け上がる。
他の三人も続いて駆け出していく。そして彼女たちは駆け上がる。光り輝くステージへと。
―――ステージ上に碧い光の奔流が溢れ出す。
そして流れ出すのは彼女たちカエルラの新曲『咲いてｊｅｗｅｌ』だ。
『咲いてｊｅｗｅｌ』を見て、今まで楓のＬＩＶＥの余韻に浸っていた観客の雰囲気は一気に変わった。
その場にいた観客たちは一気に咲いてｊｅｗｅｌの世界観にに引き込まれていったのだ。
それは咲いてｊｅｗｅｌが今回初めて出される新曲である事もあるかもしれない。楓のこいかぜとは全く違う曲調であるからかもしれない。
だが、それは、紛れもなくカエルラの皆の放つ輝きに観客が魅入られている事に他ならない。それは、以前クローネが楓にＬＩＶＥバトルを挑んだ時には無かったものである。
画面に大画面で映し出される文香の碧い瞳。凛とした表情。
それは彼女たちの青を基調とした華麗な衣装にマッチしており、強いインパクトを観客に与え、観客たちは一斉にどよめく。
そして、それはダンスもだ。
ゆったりとしたダンスのこいかぜと異なり、疾走感のある曲調に合わせた切れのある一糸乱れぬダンスは、観客を魅了するのに十分だった。
文香はダンスを踊りながらも、斜め後ろにいる奏に対して微かに視線を送る。
彼女の瞳はこう語っていた。
『私の背中は任せます。奏さん』と。
それに対して奏は微かな頷きだけで答えを返す。
『任せなさい文香。貴女の思う存分やりなさい。』と。
一糸乱れぬ、呼吸の合ったダンス。
それはオーバーワーク寸前までレッスンを行ったカエルラのメンバーの努力のたまものである。
その可憐で華麗なダンスパフォーマンスにも観客たちは魅入られる。大画面で映し出される文香の碧い瞳と、舞台の青い光。
その二つの青は絡み合って見る者全てを魅了していたのだ。
―――曲が終わった後、観衆からは大歓声が響き渡った。それは、楓のこいかぜにも負けず劣らずの歓声だった。
ＬＩＶＥバトルの結果は観客の投票数によって決まる。投票数の多い方が勝ちになるという純粋で単純なシステムだ。
そして、今回の結果は―――何と、引き分け。
観客からの投票システムであるＬＩＶＥバトルで引き分けとは実に珍しいケースである。
だが、カエルラのメンバーはその瞬間大喜びした。あのトップエースアイドル、高垣楓に対して引き分けにまで持っていけた、というのはそれだけで十分に快挙だ。
「やった！やったぞ！
『あの』！高垣楓と互角に渡り合えたんだ！ボクたちが！
ボクたちだって―――やればできるんだ！」
そんな風に大喜びしているカエルラのメンバーを穏やかに微笑みながら見つめる楓。
そして、彼女は踵を返すとステージから降りていくが、そのステージ裏と対面したのはようやく到着した美城常務だった。
「高垣。見事なＬＩＶＥだった。
だが、一つ聞きたい。貴様、まさか手加減したのか？」
その常務の言葉に、楓は静かに微笑みながら首を左右に振る。
「まさか。アイドルに『武士の情け』なんてありません。
私は全力を尽くしました。判断するのは観客たちです。
観客たちがそう判断したのなら『そう』なのでしょう。ただそれだけの話です。」
そう言いながら隣を通り過ぎようとする楓に対して、美城常務は問いかける。
「……高垣。トップアイドルであるお前に一つ聞きたい。
私にはずっと理解できない事がある。今だに理解できない。
だがお前なら理解できるだろう。」
「はい、何でしょうか？」
「……アイドルの『意義』とは何だ？ 私は、以前アイドルは商品として取り扱っていた。高く売れ、利益の取れる商品だとな。
だが、お前たちや、シンデレラプロジェクトと触れ合って、どうもそれだけではなさそうだ、と気づいた。
私は、商品として輝く星としてのアイドルを作り出そうと思っていたが、どうも私自身が求めるのはそれではなさそうだ。それは―――何だ？」
その常務の言葉を聞いて、楓は、ふふっと悪戯めいて微笑んだ。
「さて？ それは簡単に教えては面白くないでしょう？
そもそも、私の答えと常務の答えは違う可能性もあります。
その答えは、自分自身で見つける事が一番だと私はそう思いますよ。」
（それに、その答えをもう貴女は見つけているはずですから。）
楓は声には出さずに心の中だけでその言葉を呟く。
楓の答えを聞いて、常務はやれやれ、と思わず肩を竦める。
「『歌姫の意義を問うな』か。やれやれ。実に哲学的な問題だな。
まあいい。意義は分からなくとも、彼女たちを輝かす事はできる。
まずは、それに専念する事にしようか。」
―――ステージの終わったＬＩＶＥ会場。
もはや観客もいないがらん、としたその空間に、文香はステージ衣装のまま肩にストールを羽織ってその空間を見下ろしていた。
「文香？どうしたの？早く着替えた方がいいわよ？」
そんな文香に話しかけるのはもう着替えている奏だ。
ぼう、と客席を見ていた文香は振り返って穏やかに微笑む。
「いえ……。今日のライブの事を思い出していまして。
今だ、体の中に熱い熱がたぎっているようで……。まるで夢見るようで。
奏さんと一緒に歌い踊るのがこんなに楽しいなんて……知りませんでした。」
「そうね。以前はＬＩＶＥバトルでぶつかったし、クローネの皆で歌うのとは別の楽しさがあるわよね。
この距離の近さ、連帯感もユニットの強みかしら。」
「はい。ですが……残念です。舞台から見たあの碧い光の奔流はとても眩く綺麗でした。
見上げる青空とは違いますが……あの激しい碧さはとても素敵な物でした。それがまた見られないと思うと……残念で。」
しゅん、と肩を落とす文香に対して、実とあっさりと奏は言い放つ。
「そう。なら、また見ればいいじゃない。」
え？と驚いた表情を見せる文香に対して、奏は穏やかに微笑みながら言葉を続ける。
「私と文香が力を合わせれば、また素敵な景色が、素敵な世界が見られるわ。何回でも、何回でも。
まあ、アイドル同士だからまたぶつかり合う事もあるでしょうけど……その時はまた、正々堂々と戦いましょう。
アイドルであるという事は、多分そういう事なのでしょうから。」
「―――はい！」
奏のその言葉に対して、文香は満面の笑みを浮かべた。
―――そして数日後。
カエルラＶＳ高垣楓のＬＩＶＥバトルは大好評に終わった。
あの高垣楓と対等に渡り合ったカエルラの人気は一気に上昇し、結果としてクローネの名前もさらに高まる事となった。
クローネを「金をかけただけのゴリ押しメンバー」と揶揄していたネットの評判も彼女たちがその実力を見せた事で一気に沈静化しつつあった。
そしてプロジェクトクローネとカエルラで功績を上げた美城常務は、専務へのランクアップを果たしていた。
「書類纏めておきました。こちらにおいておきますね。美城専務。
後、指示されたようにシンデレラプロジェクトへの予算増額と裁量権の拡大はプロデューサーさんに伝えておきました。」
シンデレラプロジェクトである美波にピンチを救われた以上、借りは返さなくてはならない。他人からは冷徹に見られがちな美城専務ではあるが、
そう言ったビジネスの貸し借りはきちんと行うタイプである。
それは自らの部下であろうが例外ではない。
「助かる。手間をかけさせてすまんな。千川。」
「いえいえ。この業界、生き残るコツはできるだけ他人の恨みを買わないようにするのが一番ですから。まあ、何事もそうかもしれませんが。」
にこにこと微笑みながらさらり、ときつい事を言うちひろに対して、美城専務はちらり、と視線を向ける。
「……それは嫌味か？それとも忠告かね？」
「さあ？私は一般論を言ったまでですのでそれを常務がどう受け取るかまでは何とも……。」
専務の牽制にも、にこにこと笑いながらやり過ごすちひろに対して、専務ははあ、とため息をつく。
「……相変わらず食えないヤツだ。
まあいい。とにかくシンデレラプロジェクトのプロデューサーにはこれで借りは返したと伝えておけ。
あまりやりすぎると便宜を図っただ何だかんだと言われかねんからな。」
「はい、解りました。プロデューサーさんにはそう伝えておきますね。」
全く、自分で素直に礼を伝えればいいのに、と言わんばかりのちひろの笑顔を見ながら、専務は片手を振り退出を促す。
そしてちひろが退出した後、椅子に深々と腰をかけて、はあ、とため息をつく。
「全く……この業界の奴らは一筋縄ではいかない魑魅魍魎ばかりだ。
アイドルもプロデューサーも関係者も、な。
まあいい。私は私の仕事を行うまでだ。アイドルたちを、クローネたちを輝かせるという仕事をな。」
そう呟くと美城専務は再び書類仕事へと戻った。クローネやカエルラの彼女たちを、アイドルをさらに輝かせるための仕事へ。
こちらはコミケで出した「歌姫の意義を問うな」の全文になります。
公式でかなふみが来てくれて、かなふみも大分幅広く知られてきましたが、
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
ここまで読んでいただいてどうもありがとうございます。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
また次のイベントなどでお会い出来たらよろしくお願いいたします。
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