―――私は、他人が信用できない。
誰も、何も信用できない。
だから、常に他人に恐怖を抱いている。
それは、私、緒方智絵里のずっと心に抱いていた劣等感だった。
臆病、卑屈。
他人から見ればそう思われてるのは分かっている。
だけど、それでも―――。
私は夢の中で眩い光に対して手を伸ばす。
そんな私をもう一人の私がせせら笑う。
『諦めろ』
『無駄だ』
『私なんかが幸せになれるはずがない』
それでも、私は手を伸ばす。
それでも、私は手を伸ばす。
こんな私でも、いつかは何かを掴めるのだろうか、とそう思いながら。
と、ふとそんな中、伸ばした手が何か温かい物に包まれる感覚がした。
私の意識は、奇妙な安心感に包まれてさらなる深淵に落ちて行った。
「……ん。」
と智絵里はベッドの上で目を覚ました。
だが、智絵里はそこで奇妙な大きい違和感に気づく。
そこはいつもの自分自身の部屋ではない。
それに気づいた智絵里は思わず飛び起きる。
「―――ッ！？ここは……！？」
きょろきょろと辺りを見渡す彼女。
そこは天蓋がついた大きなベッドだ。
普段とは全く異なる状況にパニックになりかける智絵里だったが、次第に昨夜の記憶が戻ってくる。
「あ、そうか。私、黒川さんのお家で…。」
そう、彼女は黒川邸で昨夜泊まっていたのである。
メイドの仕事とアイドル見習いの仕事、やはり両方こなしていては彼女の体力にも負担がかかる。
特に、昨日はレッスンの後でメイドの仕事を行ったので、夜遅くなってしまったのだ。
「おはよう。緒方さん。」
「ひゃあっ！？く、黒川さん…？」
唐突な声に智絵里は飛び上がって驚く。
ベッドで横たわっていた彼女の横には、可愛らしいパジャマ姿の黒川千秋の姿があったのだ。
そんな驚いている智絵里を見て、さすがに心外だと言わんばかりに千秋は口を尖らす。
「そこまで驚くことないじゃない。
私の部屋でパジャマパーティーしようって言ったの忘れたの？」
「そ、そういえばそうでした……。」
黒川邸でメイドのアルバイトをしている智絵里だが、やはり学園生活に加えアイドルのレッスン、
さらにはメイドのアルバイトと色々と大変である。
そのため、いざという時はメイド用の寝室で寝れるようパジャマや下着なども一式黒川邸に揃えてあるのである。
「それにしても……やっぱりここのお風呂って大きいですね。私ちょっと驚いちゃいました。
「ふふ、気に入ってくれた？よかったらまた入ってもいいわよ？
うん、私、甘い言葉とか、優しい空気とか、そういうの苦手なの。
……けどまあ、緒方さんとだったら、まあいいかな、って。」
「はい。ありがとうございます。ぜひお願いします！
それにしても……。」
そういいながら智絵里はちらりと千秋のパジャマに視線をやる。
智絵里自身のパジャマもどちらかと言えば子供っぽいが、
千秋のパジャマのデザインも、黄緑色の生地に白い色の水玉模様と少々子供っぽい。
「千秋さんってもっとこう…大人っぽいものが好きだと思っていました。」
「可愛いのも好きなの！ごほん。
そんな事より……シンデレラプロジェクトのオーディション合格おめでとう。
これで、緒方さんもアイドルの第一歩ね。」
話を反らすために千秋はシンデレラプロジェクトの事を話し出す。
「はい！ありがとうございます！
私……とっても嬉しいです！
でも、一人で３４６プロダクションに行くのは不安で…。」
「部外者である私がついていくわけにもいかないしね……。
けど、シンデレラプロジェクトは３４６プロでも力を入れていくっていう評判だから、
頑張りなさいな。」
「はい！ありがとうございます黒川さん！」
正直、羨ましいと千秋は心の中で呟いた。
シンデレラプロジェクトは彼女の言う通りこれから会社の中で力を入れていく事業ともっぱらの評判だ。
アイドルとしてデビューはしたけれど、まだコツコツと地道に努力を行っている千秋からしてみれば、
まさしく智絵里はシンデレラストーリーだ。
自分は自分なりに頑張るべきだとは思ってはいるが、それでもやっぱり感情は抑えられない。
そして一番嫌なのは、そんな感情を抱いてしまう自分自身だ。
潔癖な彼女にとってはその感情は忌むべきものであり、そんなものが自分自身から出るというのは許せないのだ。
「……はあ。」
346プロダクションのカフェテラス。
そこには、コーピーカップに口をつけている黒川千秋の姿があった。
コーヒーカップを口に運ぶ洗練された仕草は優雅そのものであり、
そんな彼女の姿は深窓の令嬢そのものだった。
だが、そんな見惚れる人もいる中、千秋の口から出るのはため息だった。
そのため息の原因は、やはり自分自身の感情である。
大抜擢ともいえる智絵里の躍進に対して素直に喜べない自分がいるのが腹ただしいのだ。
気分転換にコーヒーを飲んでみたのだが、やはり気分は晴れない。
さて、どうしたものかと千秋が考えていると、一人のメイド服の少女が声をかけてくる。
「あれ？黒川さんコーヒーとは珍しいですね？
それにため息なんて……何かありましたか？」
そう彼女に声をかけてくるのは、346プロダクションのカフェでアルバイトをしている
メイド服の少女？だ。
安倍奈々。
彼女も駆け出しのアイドルとして色々頑張っているうちの一人である。
ウェイトレスということもあって、346プロダクション内部の情報にも詳しいという事もあり、
彼女から色々な情報を仕入れる事もある。
デビュー時期も近く、コツコツとお互い地道に頑張っているという親近感もあって、
何だかんだでお互い色々な悩み相談なども行う仲でもある。
自分の弱みを見せるのは嫌がる千秋であるが、まあ、彼女ならいいか、と千秋は、奈々に事情を説明した。
そしてその結果、彼女の反応は―――。
「わかりますッ！！」
―――思いっきり力強く頷かれたのだ。
しかも、ぎゅっと手を握り締められるほどである。
「解りますよ黒川さん。その気持ちよ〜っく解ります。
皆が輝かしく活躍しているのに、自分だけ地道な活動……。
やっぱり焦りますしきついですよねぇ……。
黒川さん今度一緒に居酒屋で一杯飲んで愚痴を……あ！いえ！奈々は１７歳で未成年で飲めませんのでジュースで！ジュースでお願いします！」
「え、ええ。そうね……。」
盛大にボロを出す奈々に対して、千秋も思わず汗を浮かべながら答える。
ちょっと愚痴をぽろっと言っただけなのにまさかここまで共感されるとは思わなかったのだ。
奈々は千秋の手から手を放すと、ぐぐっと握り拳を作って千秋に力強く話しかける。
「そこで！黒川さん特訓しましょう。サイン特訓です！」
「サ、サイン？」
突拍子もない奈々の言葉に、思わず千秋もきょとん、と彼女の言葉をそのまま返してしまう。
奈々はさらにぐぐっと握り拳に力を込めながら力説を開始する。
「そうですよ！アイドルたる者サインは重要！サインこそ他アイドルに差をつける絶好のアピールポイント！
はいここ重要ですよ〜。」
その奈々の言葉に、ふむ、と千秋は顎に手を当てて考え込む。
「なるほど……。その発想はなかったわ。試してみる価値はありそうね。
え、えっと…こう、かしら？」
奈々が持ってきたサインペンとサイン色紙に、千秋はさらさらと自分の名前を書いていく。
だが、それを見て奈々は大声を上げる。
「ああああダメダメダメです！これじゃただ名前書いてるだけじゃないですか〜。
そうですね……ここはギャップ萌えで行きましょう！」
「ギ、ギャップ萌え……？」
その言葉に、千秋は思わず戸惑いを覚える。
「そう！そうです！普段はクールな黒川さんがキュートな可愛らしいサインを書く！
ここですよポイントは！これでお客さんのツボを掴んでばっちぐーです！」
彼女の勢いに押されながらも千秋はあれやこれやと四苦八苦しながらサインの練習をしていく。
普通の漢字ではインパクトが弱いと思った彼女は、今度はローマ字に変えて色々と試してみる。
「こ、こうでいいかしら……。」
「うーん、まだまだ固いイメージがありますねぇ……。
こうしゃっと柔らかいイメージはどうでしょうか。」
「そ、それじゃこうかしら……？」
千秋はさらにローマ字をさらにいじったり、その後ろに小さな☆彡をつけてみる。
そのサインを見て、奈々はぐっと親指を立てる。
「グーッド！いい感じですよ黒川さん！
特にこの最後の星がちょこんとついているのがキュートな感じでばっちぐーです！」
それを聞いて、千秋はぐったりと疲れたようにカフェテラスに倒れこむ。
慣れたサインを何十枚もサイン色紙に書くのも疲れるが、
サイン用紙に何度もサインを試行錯誤しながら新しいサインを模索するのも別の疲労感があるのだ。
「つ、疲れたわ……。
アレね……。漢字の書き取り帳を延々と続けているのを思い出したわ。」
そんな千秋に対して、奈々は、ことりと彼女の机の上にいつもの紅茶を差し出す。
「お疲れ様です黒川さん。
これ、私からのサービスです。ゆっくり休んでくださいね。」
千秋はありがとう、と礼を言うとサービスで差し出された紅茶に口をつけながら、
奈々に対して疑問に思った事に口を出す。
「でも……奈々さん、何で私に色々アドバイスしてくれたのかしら。
私にアドバイスなんてせずに…その…黙っていたら奈々さんが有利になるかもしれないのに…。」
彼女は一瞬何を言われたか分からないように、きょとんとした後、
にっこりと笑って言葉を放つ。
「そりゃせっかくやるなら楽しい方が決まってるじゃないですか！
アイドル同士の脚の引っ張り合いとか全然楽しくないですし！
お互い楽しみあって頑張っていける方が全然いいに決まってますよ！」
その彼女の言葉に、千秋は瞼をぱちくりとすると、やがて穏やかに微笑みを浮かべる。
「……楽しい、か。そうね。それは大事な事ね。
ありがとう。奈々さん。大切な事を教わったわ。」
「えへへ。いいんですよ〜。
もし一緒のステージに上がれたら頑張りましょうね！」
「ええ、頑張りましょう。
……所で奈々さん、あそこでカフェの店長が凄い顔しているけれど…。」
ちらり、と千秋がカフェテラスの店長の顔を見ると、確かに凄い顔をしている。
注文はきちんとこなしているから問題はないが、
やはり仕事中なのに長々と客と話をしていたのがまずいらしい。
その顔を見ると、彼女は慌てて店長の元へ謝るために駈け出した。
「あわわわ、お客さんと話し過ぎました〜！
そ、それじゃ黒川さん今度また！」
そんな慌てて去っていく彼女に対して、千秋は軽く片手を上げると、
紅茶のカップを持ち上げて、冷えた紅茶を口に運ぶと、晴れわたった青空を見上げる。
「―――楽しさ、か。……うん、私も楽しみながら頑張ろう。」
千秋は、晴れわたった空を見上げながら一人ぽつりと呟いた。
こんにちわ。零です。
黒川さんのサインを見たのですが、
サインが可愛すぎてついカッとなって書いた。
反省はしていない。
感想などいただけるととても嬉しいです。
それでは失礼です。
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