―――私には何も価値がない、と文香は言った。
私にはそれがどうしても許せなかった。だから―――。
―――雨が降っていた。
天気予報では全く伝えられていなかった突然の雨。
だが、そんな事には関わりなく、その古書店では一人のゆったりとした服を身に纏った、
流れるような黒髪で、前髪で自分の瞳を隠している一人の女性が本のページをめくっていた。
―――鷺沢文香。
それが彼女の名前であり、文学部の大学に通う大学生である。
大学に通っていない時には、叔父の古書店の手伝いとしてこうして店番を行っているが、
正直、店番と言ってもほとんど本を読んでいればいいだけなので、彼女としても気が楽である。
都内の大学に通ってはいるが、正直コンパだの合コンだの他の大学生のノリについていけない文香は、
大学の授業が終わった後は、すぐに古書店に帰るか、他の本屋へと足を運ぶだけの毎日だった。
叔父は、中高大学と、なかなか友人のできない文香に対して心配しているようだったが、
これは自身の性分なのだから仕方ない、と文香自身は諦めていた。
それでも、正直、よく物語の中である「親しい友人と仲良く街中で遊ぶ」という事に、憧れを持っていた事は確かである。
……だが、「親しい友人」などどうしたらできるのか。彼女にはそれが分からなかった。
と、そんな中、一人の女性がずぶ濡れになりながら古書店に駆けこんでくる。
普段はどんな状況でも本に熱中できる文香としては、珍しくちらり、と横目で駆け込んできた女性に視線を送る。
「ふう……困ったわね。どうしようかしら。」
その姿に、思わず文香の胸がどきり、と高鳴った。
雨で濡れた艶やかな短めの髪、透き通った白い肌、豊かな胸。
雨で濡れて透き通った学生服から見えるその艶やかな姿は、女性である文香であっても赤面してしまうほどだった。
そんな文香でも見惚れるような美人が、髪から水を滴らせている姿は、一種幻想的な姿にも見えた。
そんな非現実的とも言える光景を見た文香は、自分でも驚くような行動を取った。
「……あの、よろしければ……。」
一度、店の奥に引っ込んだ文香は、おずおずと彼女にバスタオルを差し出した。
普段の人見知りする文香ならば決して取らない行動である。
「あ、ありがとう。」
そんなバスタオルを差し出した文香に対して困惑しながらも、その女性はバスタオルを受け取って髪や体を拭いていく。
だが、やはりタオルだけでは濡れた体を拭くだけで精一杯である。まだ雨のやむ気配はない。
このままでは風邪を引いてしまうかもしれないし、同じ女性として下着が透けたままというのはちょっと……というのは分かる。
そこまで考えた文香は、さらに自分でも驚くような提案を彼女に言う。
「……あの、よろしければお風呂に入っていきますか？ 私ので良ければ、着替えも用意しますし……。」
自分の中から自然に飛び出してきたその言葉に、文香は自分自身でも驚いていた。
常連のお客さんというのならともかく、雨に降られて飛び込んできた一見の客にそこまでするなど普通は考えられないからだ。
その予想外の言葉に、その女性も思わず目を丸くする。
「え、でも……いいの？そこまでしてもらって？」
「構いません。そのままでは……風邪を引いてしまうと思いますので……。
着替えの服も……私の服でよろしければ……。さすがに下着はちょっと……ですが。」
文香の叔父の古書店は、叔父の住居と一体化している。
本を置いてある書籍スペースの裏に、文香たちが住んでいる住居があるのである。
どうせ雨は降っており開店休業状態なのだ。多少は離れても構うまい、と判断した文香はレジの鍵を抜くと、
そのまま奏を住居スペースまで案内すると、風呂場まで案内する。
見たところ、その女性と文香は、身長は同じ162cmであり体重もほぼ同じである。おまけに文香はゆったりとした服装を好む。
それゆえ、その女性が文香の服を着るというという事に無理はない。
文香は、自分の予備の服を着替えとして着替え籠の中に入れておいた。そしてしばらく後、風呂から上がった奏の姿があった。
「ふう、一息つけたわ……。ありがとう。」
風呂に入ったその奏の湯上りの少し赤くなった白い肌を見て、文香の胸はどきり、と波打ってしまう。
女性である文香から見ても、どきりとするような色気だったからだ。
多少顔が赤くなっているのを自覚している文香は、自分の顔を隠すようにそそくさとキッチンへと向かい、
コップにホットミルクを入れて、ドライヤーで髪を乾かしている女性に差し出す。
「はい……どうぞ。ホットミルクですが。」
「あ、ありがと……。……でも、何でここまでしてくれるの？私、ただここに飛び込んできただけなのに。」
その彼女の疑問は当然である。
常連ならともかく、ただ雨に濡れて飛び込んできた彼女に対してここまで親切にする事など普通はあり得ない。
もっとも、びしょ濡れの女性を放ってはおけないという文香自身の優しさというのが大きいのだろうが。
だが、文香自身でも、その理由がよく解らず、少し小首をかしげながらも答える。
「なぜ……でしょうか。自分でもよくわかりません。
私には、友人がいないので他人との接し方がよく解らないというのもあるのでしょうが……。」
その言葉に、奏は思わず大きくため息をつく。
「はあ。色々してもらった事は有難いけれど……そんなんじゃ悪い人に騙されても不思議じゃないわよ。
私が悪い人間だったらどうするつもりだったのかしら……。ええと……。」
「文香です。鷺沢文香。そちらのお名前は……。」
「奏よ。速水奏。学校行きながらアイドルやってるわ。まだ候補生だけどね。」
その奏の言葉に、文香は驚いたように思わず目を見開く。
「ええと……学生の方、ですか？ 失礼ですが、その……大人びた容貌ですから、もっと年上かと……。」
「なぜか学生服着ていても間違えられるのよ。不思議よねぇ……。」
確かに奏は学生服を着てはいたが、それを忘れさせてしまうほど、奏の容貌は綺麗で大人びていたので、
印象には全く残らなかったのだ。思わず奏がわざとらしくため息をつくと、文香は慌てて言い訳をしようとする。
「あ、す、すみません。その……。」
「いいのよ。慣れてるから。それより、ホットミルクありがとう。体温まるわ。」
「いえ、とりあえず今、奏さんの服を洗濯していますので……。
そのまま乾燥機に入れてしまうので、乾くまでまだ時間がありますのでごゆっくりどうぞ。
あ、お暇なら本を読まれていかれてはいかがでしょうか。この本など……。」
奏の学生服を洗って乾かす間、そんな風に奏と文香は、色々話を行っていた。
奏も同性の心を許せる人間は、ほとんどと言っていいほどいない。
皆、綺麗すぎて近寄りがたいと感じるか、彼女に嫉妬して敵意を持つかの二拓である。
そんな彼女にとって、そのどちらでもない自分を純粋に慕ってくれる文香の態度はとても居心地のいいものだった。
文香の方も、同性の友人などほとんどいないので、こちらの話を聞いてくれる奏の態度に好感を持つのは同然と言えるだろう。
と、二人がそんな話をしていると、いつの間にか雨が上がったらしく、雲の切れ目から眩い光が差し込んでくる。
「……雨。上がりましたね。」
先ほどの空一面のどんよりとした雲が嘘のように、急速に雲が張れて青空が戻ってくる。
すっと、文香はいつもの癖で雨の上がった青空を見上げた。
「―――ッ！？」
その文香の横顔を見た瞬間、奏は思わず固まってしまった。
雪のように白い肌、空の青の色のように透き通った蒼い瞳、さらさらで綺麗で黒髪。
空を見上げた文香の横顔は、奏ですら見惚れさせる美貌だったからだ。
今までは、前髪で瞳を隠していたので解らなかったのだが、空を見上げた結果、それが明らかになったのである。
「あの……どうかされましたか？」
不思議そうに、こちらを覗き込んでくる文香。その吸い込まれそうな綺麗な碧い瞳に、
思わず見惚れそうになってしまった奏は顔を少し赤くしながら、さっと横を向いてしまう。
「い、いえ何でもないわ……。その、鷺沢さんの瞳、とても綺麗な碧い瞳ね。」
横を向いてしまった奏に対して、文香はきょとん、と小首を傾げる。
「そう……ですか？ 私自身はあまり好きではないのですが……。
何でも、日本人でもこういう黒髪に碧い瞳になるという事はあるらしいのですが…。」
そう言いながら文香はささっと前髪を整えると、前と同じように前髪で自らの瞳を隠してしまう。
稀な事だが。黒髪でも碧い瞳を持って生まれてくる人はいるらしい。恐らく文香は生まれつきそうなのだろう。
「表情を見られると…自分の全てを見られるような気がして。」
―――もったいない。
奏は、そんな文香を見て憤然たる思いを抱いた。
雪のような白い肌、透き通った吸い込まれるような碧い瞳、さらさらの黒髪。
世の女性たちが喉から手が出るほど欲しがっている美貌を持っていながら、
それを全く活用ともせずに、古本屋の片隅で朽ち果てようとしている。
そんな事は、綺麗な物を愛する奏にとっては耐え難い事だった。
だが、そんな奏の内心には気づかず、文香はそっと音を立てずに静かに立ち上がった。
「あ。もうこんな時間……ですね。」
そう言うと、文香は脱衣場にある乾燥機の元へと足を運ぶ。乾燥機の乾燥も終わり、奏の服は完全に洗濯が終わっていた。
その服を丁寧に折りたたんだ後で、そっと居間にいる奏へと差し出す。
本来なら、ここで縁は切れるはずだった。だが、同性の友人などほとんどいない文香にとって
話が合う同性の友人など貴重な存在だった。そんな文香の口から、自分でも無意識の内に言葉が飛び出していた。
「あの、またよろしければ来ていただけますか？
私、同性の友人がほとんどいなくて……奏さんと話していて、とても楽しかったです。ですから……。」
「ええ、分かったわ。今回お世話になった事もあるし、お礼に、ね。」
そう言うと、奏は文香に対して軽くウィンクをした。
その仕草は、同性である文香すらも、どきりとするような仕草だった。
「……ただいま。」
文香の古書店から自分自身の家に帰ってきた奏は、誰もいない家の中に声をかけた。
誰からも声が帰ってくるはずもない。空っぽでガランドウな生活。
……奏の家は、両親ともに共働きで忙しく、奏にはあまり興味を示さなかった。
彼女がアイドルになると言った時も、実にそっけなく「そう、好きにしなさい」だけだった。
そんな空っぽな室内を通り抜け、奏は自分の部屋へと入ると、そのままごろん、とベッドの上に横になる。
アイドルになる前の奏はどこか空虚さを抱えていた。
それを埋めるために、様々な事に挑戦し、学園生活を楽しもうともしてみたが、やはりその空虚さを埋める事はできなかった。
そんな所をアイドルにスカウトされて、今迄にない充実感を感じているのは確かである。
映画が趣味な彼女の室内には、様々な映画のＤＶＤやブルーレイ、それに壁にはポスターがあるが、
その中でも、一枚だけ異質なポスターがある。
それは、346プロダクション所属のトップアイドル、高垣楓のポスターだ。
一度、彼女のＬＩＶＥバトルの番組を見た事があったのだが、
相手プロダクションのアイドルたちをたった一人で薙ぎ払っていく凛とした姿。
同性としてあんなカッコいい姿に憧れない女性はいない、と思えたほどだ。
彼女がアイドルとしてスカウトを受けたのは、それも一因ではある。
私も、あんな風になりたい、輝きたい、と心のどこかで思っていた事は否定できない。
『そうですか。今度奏さんのライブを見てみたいものです。』
ふと、アイドルをやっている、と文香に言った時の彼女の言葉が脳裏によみがえる。
文香の何の気なしのその言葉が、奏の心には何故か染み渡った。
何故か、涙が出るほど嬉しかったのだ。
無関心な家族にも、綺麗すぎて受け入れないと言われた同性にも、
下心を出して近づいてくる異性にも心を許せなかった彼女にとっては、
自分自身を受け入れてくれたプロデューサーと同じ安心感を彼女は文香に感じていたのだ。
「だって、文香は、初めて出来そうな私の、同性の友人……だもの……。」
ベッドに横たわり、うとうととしてた奏は、その言葉を最後に眠りに落ちていった。
それから、奏はちょくちょく文香のいる古本屋へと通う事になった。
何もない実家よりも、文香のいる場所の方が彼女にとっては温かみを感じられたからだ。
「うーん、私今まで親しい友人いなかったから実感わかなかったけど……私って自分自身でも驚くぐらい面倒見いいのね。
知らなかったわ。」
そう呟きながらも、キッチンで文香と自分用の食事を作っている奏。
何せ、文香は食事に無関心で、放っておくとクッキーやカロリーメイト、
またはコンビニ弁当など手軽な所で済ませようとしてしまうのだ。
それを見ていた奏は、放っておけずに思わず自分から食事を作るようになっていた。
元々、器用な奏は、伊吹などに料理を習うことによりその腕をめきめきと上げていた。
「それが……奏さんの魅力的な所かと。」
キッチンで食器の準備をしている文香は、奏の言葉にそう答える。だが、その文香の言葉に、唇を尖らせて反論する。
「もう、文香ってばそう言って自分の部屋の事を誤魔化さない。
寝るスペース以外はほとんど本で埋もれているのはさすがにびっくりしたわ。」
その奏の言葉に、文香は思わず顔を赤くする。
今まで自室に友人を入れるなど考えた事もなかった文香の自室は文字通り本で埋もれるような状態だった。
それを見て、奏が文香に掃除や整理をするように苦言を呈したのだ。
「お恥ずかしい……限りです。今まで他の人を私の部屋に入れた事なんてありませんでしたから。」
だが、顔を赤くしながらも、さらに文香は言葉を続ける。
「でも……私は嬉しいです。少し前まで、こうして仲良くお話しして下さる同性の友人などいませんでしたから。
奏さんが、私の初めての親しい友人です。
親しい友人はいないとおっしゃいましたが……知り合いのご友人が多そうな奏さんからすれば、
笑われるような事かもしれませんが……。」
その純粋な嬉しそうな文香の瞳に、思わず奏は微かに目を逸らしてしまう。
まさか、「自分も同性の友人ができるのは初めて」だとは言えない。奏は微かに文香から目を逸らしながら言葉を返す。
「そ、そう。それは嬉しいわね。あ、そうだ。ねえ、文香。今度私のＣＤデビューのミニライブがあるの。
よかったら、見に来てくれるかしら？」
多少強引ながらも、奏は話の流れを変えるために別の話題を文香に対して振る。
そう、ついに奏のＣＤデビューが決定したのである。持ち歌は「Hotel Moonside」
エレクトロニック・ダンス・ミュージックの曲調であるその曲を、自らの物とすべく、
今の彼女はＣＤデビューのために猛特訓中なのである。
ダンスレッスンにボイスレッスンなど、毎日毎日へとへとではあったが、それでも彼女は文香の家に足しげく通っていた。
人間は体力だけでなく、気力も充実させてこそ最高のパフォーマンスを行う事ができる。
空っぽで空虚な家にいるよりも、文香の家で過ごしていた方が、ずっと奏にとっては気力が回復できるのである。
「え？ でも私はアイドルのステージなんて見に行った事なくて……。」
「いいの。そんなに気負わなくて。私も初めてのステージだから顔見知りがいると安心するわ。
正直、今からもう不安とか緊張とかもあるし。」
これは事実である。いかに彼女が大人びているとは言っても高校生。
そんな彼女が初めてのステージに立つのだ。緊張しない方がどうかしている。
そんな時に見知った顔があると、安心できるというのは事実である。
「奏さんも……緊張するんですね。いつも落ちついて見えるので……そういうのはないかと思い込んでいました。」
「もう文香ってば。私だって人間なんだし、それくらいするってば。まあ……そんな訳だから来てくれると嬉しいわね。
文香の気が向いたらでいいから。」
そんな風に自分の感情を言葉にしてしまうと、思わず照れてしまう。自分の感情をあまり表に出す事は得意ではないのだ。
そんな風に、自分の髪をいじりながら顔を少しだけ赤くしている奏を見て、文香はくすり、と微笑ましい物を見るように微笑んだ。
―――そして、数日後。大学を終えた文香は、奏の言っていた場所に足を運んでいた。
そこは、かつてシンデレラプロジェクトのラブライカやニュージェネレーションがデビューした場所と同じ場所である。
「ここが……奏さんの初舞台の場所、ですか。でも……あまり人はいないようですけれど、大丈夫なのでしょうか。」
周囲を見渡してみても人はまばらにしかいない。アイドルのデビューという物はもっと華々しい物だと文香は思っていたのだ。
そんな文香の心配を他所に、音楽が流れ出し、アイドルの衣装に身を包んだ奏が姿を現す。
瞬間、文香は息を飲んで見惚れてしまった。
ぴん、と伸びた手足。切れのいい華麗ともいえるダンス。凛とした表情。
そのどれもが同性である文香が見惚れるほど綺麗なものだった。それは、まるで地上の星を見ているようだった。
その奏のパフォーマンスの高さに、道行く人たちも脚を止めて魅入ってしまう人もいるほどだ。
「これが―――アイドル、というものなのでしょうか。」
小声で呟く文香。
奏の歌とダンスを見ている彼女の胸の中には、何か形容のしがたい熱い物がこみ上げてくるのを感じてしまった。
それは、今まで静かで穏やかな世界にいた彼女には感じた事のない感情だった。
ぎゅっと胸の前で拳を握る彼女。その小声の彼女の疑問に答えられる者は、誰もいなかった。
……それからしばらくして、無事初ライブを終えた奏は私服に着替えて帰ろうとしている所で、文香の姿を見つけて手を振る。
「あっ、文香。来てくれてありがとう。文香がいる事は分かってたんだけどね。私も一杯一杯だったから……。」
ミニライブが終わって、私服に着替えて帰ろうとしていた奏は、奏が出てくるまで待っていたであろう文香を見つけて声をかける
。その奏に対して、文香はにこり、と笑みを浮かべて言葉を返す。
「いえ、初ＬＩＶＥ拝見させていただきました。とても……素敵な、良いＬＩＶＥだと感じられました。」
「そ。ありがと。あーあ。流石に疲れちゃったな。ねえ、今日も文香の家に泊まってもいい？
美味しい物作ってあげるわね。私も美味しい物食べたいし。」
そんな風にたわいもない話をしながら、文香の家へと帰る二人。
少し前まで友人のいなかった文香にとっては、これだけでも掛け替えのない大切な時間だ。
それは友人がいなかった文香にとっては、夢見たような時間である。
何もしなければ、このまま夢のような時間は続いていくのだろう。
―――だが。
それでも、文香の胸の中の熱さは止められなかった。先ほど見た奏のステージ上の輝きがどうしても忘れられなかったのだ。
自分もあんな風に輝いてみたい。紙魚程度の価値しかない自分が輝けるのなら。
だから、文香は思わず奏に口を開いて問いかけてしまっていた。
「奏さん―――アイドルになる、とはどういう感覚なのでしょうか？ やっぱり、楽しいのでしょうか？」
その文香の言葉に、奏は足を止めると、じっと静かに文香の瞳を見る。
前髪で彼女の表情も瞳も見えにくいが、彼女は真剣そのものだ、という事が奏にも感じ取れた。
「……文香、アイドルに興味があるの？」
「いえ、今までは興味は全くなかったのですが……今日の奏さんを見て、奏さんの輝きが眩しいと。
とても素敵で羨ましいと、そう感じてしまいました。
図書館に籠ってばかりの私でしたが……もし、私もあんな風に輝いてみたら、
それはきっと素敵な事だろうと、そう感じてしまいました。」
そう呟きながら、すっ、と顔を上げ、夕日に赤く染まった空を見上げる文香。
流れるような黒髪、碧く輝く瞳、夕焼けに染まるその彼女の横顔は、以前と同じように、思わず奏は見惚れるほどに美しかった。
「奏さんは……何故アイドルを目指そうと思ったのですか？」
ぽつり、と赤く染まった空を見上げながら文香は奏に対して呟く。
その綺麗な文香に一瞬見惚れてしまった奏だったが、それも一瞬の事。
瞬時に冷静さを取り戻した彼女は、同じように夕焼け空を見上げながら呟く。
「そうね……。あの時の私、ちょっとヤケになっていたの。
何を目指せばいいか分からない。全部遊びだとしか思えない高校生活。
そんなのにうんざりしていたのよね。で、ちょうどそんな時にプロデューサーにスカウトされて、つい、ね。
その理由が一番大きいのだけれど……高垣楓、知ってるかしら？」
その言葉に、文香は申し訳なさそうに首を横に振る。
「いえ……。アイドルには疎いので。申し訳ありません。」
「いいのよ。私もアイドル始める前はそんなに詳しいわけじゃなかったしね。
けど、アイドル候補生としてレッスン受けて…あの人の凄さを知って、
あのカリスマ、輝き、凛とした姿。私もああなりたいと、いえ、あの人を超えてみたいと―――そう思ってしまったのよ。」
「……。」
その奏の表情と言葉に文香は沈黙する。奏が憧れの表情を浮かべるのは初めてみたからだ。
「やっぱり、私が誰かに憧れるなんて、変だと思うかしら？」
「いえ、私もその気持ちは分かります。」
「？」
疑問の表情を浮かべる奏に対して、夕焼けに照らされる文香は穏やかに微笑む。
「私も……奏さんのライブを見て思ってしまったのです。私も、奏さんみたいになりたい、と。
何の価値もない私ですが、あんな風に輝くことができたら、とそんな風に思ってしまいました。」
その文香のストレートな言葉に、奏は思わず照れて僅かに顔を赤くしながら答える。
「そ、そう。それはとても光栄で嬉しい事だけど……文香も、アイドルのオーデション受けてみるの？」
「はい、正直、自信は全くありませんが、まあダメ元で……。
私のような地味で本を読む以外には何の取柄もない人間が受かるとは到底思えませんが……。」
「もう、文香はルックス抜群なんだからもっと自信持つ事。でもやっぱり面接慣れしてないのは不安よねえ。
私もスカウトでオーディションを受けた事はないんだけど……できるだけやってみましょうか。」
そう言うと、奏はすっと文香に対して小指を差し出す。その仕草に文香はきょとん、とした表情で小首を傾げる。
「……あの？」
「約束、しましょ。文香。貴女がアイドルになったら二人でステージに立って一緒に歌うと。それまでお互い頑張りましょう。」
微笑みながらそういう奏に対して、文香も静かに微笑みながら自分の小指を奏の小指に絡める。
「……はい。解りました。約束……です。」
夕日に赤く染まる世界の中、二人は小指を絡め合ってそう約束した。
これが、二人の初めての約束だった。
そして、それからさらに数週間後。346プロダクションのアイドルオーディションに応募した文香は、面接を受けていた。
しかし、多少訓練したからと言っても、面接はおろか人との付き合いもあまりない文香にとっては、
いきなりの面接はやはりハードルが高すぎたと言えるだろう。
「は、初めまして。鷺沢、文香と申します。わ、私は……。」
初めての面接で文香のような女性が上手くできるはずもない。結局、自己紹介すら上手くできずに終わってしまった。
「……はあ。」
そしてその後、とぼとぼと肩を落として346プロダクション内部を歩いている文香の姿があった。
結局、口下手で面接に全く慣れていない彼女は自己紹介も満足にできずに終わってしまった。
あんな状態で面接に合格するはずはない、と彼女自身でも分かってしまう。
これでは約束した奏に申し訳が立たない。
そう考えるとますます彼女の気分は陰鬱になってきてしまう。
と、そんな肩を落としながら346プロダクション内部を歩いていた文香だったが、
ふとそこで彼女の目にオープンカフェが飛び込んでくる。
気分転換にここで本を読んでみるのも悪くないだろう、と判断した文香は、
自分でもこのカフェを使っていいのか、カフェのメイド服の女性の店員さんに尋ねてみる。
「あの、私はオーディションのためにここに来たのですが……それでもこのカフェを利用してもよろしいのでしょうか？」
「はいはーい。大丈夫ですよー。どうぞごゆっくり〜。ご注文があったらお申し付けくださいね〜。」
メイド服を着た快活そうなその女性は文香の言葉ににこやかに答えると、そのままその場を去っていった。
文香はカバンから愛読書を取り出すと、コーヒーを頼んでゆったりと本を読み始めた。
オープンカフェで本を読む事は少ないのだが、こういう天気のいい日になら気分転換にいいかもしれない、と思ったのだ。
しばし集中して黙々と本を読み始める文香。
そんな読書に集中している彼女に対して、ふと目を止める人物がいた。
346プロダクション総括重役の美城常務である。
彼女は、ふむ、と顎に手を当てて考え込むと、そばに通りかかったメイド服の女性…安部奈々に対して声をかける。
「ふむ、すまない。あの子は見たことない子だが、何か知っているかな？」
「あっはい。えーと、何でもオーディションを受けに来たとか何とか詳しい事は知らないのですが……すみません。」
「いや、いい。仕事中にすまなかったな。」
「いいえ。それじゃ奈々はこれで〜。」
美城常務は、顎に手をやりしばし考える。
上手くは言えないが、文香を見た瞬間、何となくピン、と感じる物があったのだ。
あの地味な女性にどこに感じる物があったのか自分自身でもよく解らない。
だが、彼女は自分自身の審美眼には自信を持っている。多少、話をしてみる価値はある、か。
にこやかに去っていく奈々を他所に、美城常務はつかつかと文香のいるテーブルへと近づいていき、
ちょうど本を読み終えてコーヒーを口に運んでいる彼女に対して声をかける。
「隣、いいかな？」
「あっはい……。どうぞ。」
いきなり声をかけてきた女性に対して、戸惑う文香であったが、結局素直に受け入れる事になった。
他にも席は空いているのに、何故わざわざ文香の横に座るのか理解できなかったからだ。
「君はここでは見かけない顔だが……アイドル志願者かね？」
そんな風に戸惑っている文香を他所に、その女性は文香に対して話しかけてくる。
「はい、そうです……。鷺沢文香と申します。ですが……やはり私には無理だったようです。
今日オーディションの面接を受けてみてはっきりと理解できました。
地味で何の取柄もない私が光り輝く場所に立つのなど……。」
「ふむ、では君は、光り輝く事を諦める気かね？ 一度ダメだっただけで？」
「………。」
しばしの沈黙。その後で、文香は静かに口を開く。
「……いえ。無理だとは自分自身でも分かってはいます。
ですが……私は意外と諦めが悪かったようで。自分自身でも多少驚いてはいますが……。
今回の経験を活かし、また次チャレンジしてみようと。完全に諦めることは、いつでもできますから。約束も、ありますし。」
口元に穏やかな微笑みを浮かべる文香を見ながらも、美城常務は冷静な口調で問いかける。
「……少しは話して気が晴れたかね？」
「はい、ありがとうございます。少しは……気分が晴れました。まるでこの青空のように。」
その言葉と同時に、文香はすっと顔を上げて青空を見上げる。
その瞬間、文香の横顔が目に入った瞬間、美城常務ははっと息をのむ。
雪のように白い肌、さらさらの黒髪、そしてまるで青空をそのまま映し出したかのような碧い瞳。その引き込まれるような美しい横顔、そしてその瞳を見た瞬間、常務ははっ、と息をのむ。それは、まるで一枚の絵画のような美しさだったからだ。
「……君のその瞳は。」
多少驚きの色が込められたその常務の言葉に、文香は顔を赤くしながら思わず俯いてしまう。
「え？ あ、はい。たまに日本人の方でも黒髪でも碧瞳の人が生まれるらしく……。
どうやら私がそうのようです。
たまに綺麗と言って下さる方もいるのですが……これでいじめられたこともあるので、
前髪を伸ばして隠してきたのですが……その、やはり気味悪いでしょうか。」
「いや、綺麗だと私は思う。この透き通った青空と同じようにな。」
「は、はあ。あ、ありがとうございます……。」
その予想外の言葉に、文香は、思わずさらに顔を赤くしてしまう。
この瞳を褒められたのは、奏以来二人目だったからだ。それだけ言うと、美城常務はがたり、と立ち上がる。
「いや、実に有意義な時間だった。いい気分転換になった。ありがとう。そう言えば、君、名前は」
「あ、はい。鷺沢文香と申します。あの、そちらのお名前は。」
「美城とだけ覚えてくれればいい。それでは失礼する。」
それだけを言うと、つかつかと足早に立ち去っていく彼女の後姿を、文香は見つめるが、
すぐに気を取り直して読書へと戻っていった。
「ふむ。鷺沢文香、か。プロジェクトクローネ、彼女ならいけるかもしれんな。」
その呟きは、誰にも聞きとられる事はなかった。
―――それから数日後。鷺沢古本屋ののれんをくぐって店内に入ってくる美城常務の姿があった。
きっちりとしたスーツ姿にその特徴的なビジュアルは、他人に対して関心がなく、
人の顔を覚えるのが苦手な文香でもはっきりと覚えていた。
いつものように、店番をしながら本を読んでいた文香は、顔を上げて常務の顔を見ると、意外そうに声をかける。
「あ……あの時の。偶然、ですね。何か御用でしょうか。」
「ふむ。ここはアイドルの書籍は置いてあるのか？」
ぐるり、と彼女は古本屋内部を見渡すと、文香に対してそう話しかけてくる。
「あ、いえ。アイドルの書籍はあまり……。古本屋ですし、その手の書籍はあまり出ていませんので……。」
なるほどな、と美城常務は小さく呟く。
顎に手を当ててしばらく考え込んでいる彼女は、ふと思い出したかのように、文香に対して言葉を放つ。
「ふむ、そう言えば君には名刺を渡していなかったな。これが私の名刺だ。」
そう彼女が差し出した名刺には346プロダクション、美城常務と書かれていた。
それを見て思わず文香は驚いてしまう。まさか彼女はそれほど偉い人だとは思わなかったからだ。
「美城……常務？ あの、常務というのは……。」
「ああ、346プロダクション、アイドル部門を総括している者だ。さて、回りくどいのは面倒だから率直に言おう。
君は、アイドルになる気はないか？」
面食らっている文香に対して、彼女は率直に言い放つ。だが、その言葉に文香はさらに動揺する。
確かに346プロダクションの面接は受けたが、不合格通知はすでに文香の所に届いている。
不合格通知が届いているのに、直接スカウトが来るなど、彼女にとっては全くの想定外だったからだ。
「え、でも……私はオーディションに落ちて……。」
「オーディションについての資料は拝見させてもらった。なるほど。あの面接では確かに君は落とされるだろう。
だが、私は君に素質を感じた。
今だ、誰も気づいてはいないが、そのビジュアル。磨けば宝石のように煌めくだろう。
その可能性を感じたからこそ、失礼ではあるが資料に書かれた住所を元に私が直接スカウトしに来たという訳だ。」
「私が……ですか。でもそんな……。私のような地味な女性がそんな。」
困惑している文香に対して、美城常務はさらに言葉を続ける。
「ふむ。だが、応募したという事は興味があったということだろう？
これは君にとって振って沸いたチャンスだと思うのだが……まあいい。
とりあえず名刺は置いておく。その気になったら連絡をくれるといい。
最も、私は気が長い方ではない。その気があるのなら早めにすることだ。」
それだけ言い残すと、彼女は名刺の裏に会社直通の電話番号をさらさらと書いて、颯爽とその場を立ち去っていった。
常務などという重役がわざわざオーディションで落ちた自分の所に来てスカウトをするなど、
そんな都合のいい話は、いくら事実は小説より奇なり、とよく言われていても文香にはいまいち信じられなかったのだ。
そして、困った文香は、とりあえず奏に相談してみる事にしてみた。
「―――と、いう訳なのですが、どうなのでしょうか？
その、こういうスカウトは詐欺も多いと聞きましたので。346プロに所属している奏さんならご存じかと。」
「まさか常務から直属スカウトされるとは……流石に予想外だったわ。」
そう相談された奏は、文香から渡された名刺を見る。
確かに、使用されている名刺も、書かれた直通の電話番号も346プロダクションで使用されている物である。
それに文香から聞いた容姿と名前は、確実に奏も知っている美城常務である。
彼女の名前を騙った詐欺ではない事は明らかである。
「驚いたわね……。確かに本物だわ。あの常務が自らスカウトするなんて、よっぽど買われたのね。」
奏が作ってくれた食事を取りながら、二人はそんな話をする。
文香がオーディションに落ちたという事で、美味しい物を食べさせてあげようと思っていた奏にとっては、
完全に予想外の展開だった。
「はい。何でも社内の改革のために新しいユニットを結成するとかで……。
プロジェクトクローネ、と言っておられました。
クローネ、というのはドイツ語で『王冠』という意味ですから……あの人の気迫というものが伝わってきますね。」
常務に聞かされた話を、文香はそのまま奏に話す。
美城常務は単に文香をスカウトするだけでなく、彼女の所属するであろうその後のプロジェクトまで簡単だが話していたのだ。
それは、文香がいかに常務に買われているかを示しているものであったのだが、文香自身にはその自覚はなかった。
そして、クローネの名前を聞いた瞬間、奏は驚いた表情を浮かべる。
「え？ 文香もプロジェクトクローネに選ばれたの？」
「と、言う事は……奏さんも、ですか？」
その文香の言葉に、奏は、こくん、と頷く。
ＣＤデビューが好調のため、彼女は今日常務の新しいプロジェクトメンバーに選ばれる事が決定していたのだ
オーディションに落ちた文香をさらに落ち込ませないように言わないでおこうと思っていたのに、
まさか文香もクローネに選ばれるとは彼女にとっては驚きだった。
「ええ、大抜擢ね。私も最初は戸惑ったけれど……せっかくのチャンスだもの。
これを逃す手はないわ。せっかくアイドルになれたんだもの。文香の方は私的な意見を言わせてもらえば……凄いチャンスよね。
オーディションに落ちた人をわざわざスカウトしに来て自分の大きなプロジェクトに入れるなんて滅多にない事だもの。
まあ、最後に決めるのは文香自身だけど……文香は、もうアイドルになると決意したのでしょう？。」
「ええ。詐欺ではないと分かった以上そのつもりですが……やはり不安もあります。」
その言葉に、文香は箸を手にしながら考えこみ、ふと思いついた事を口にする。
「奏さんから見て、新しい世界はどのような世界でしたか？」
そんな文香の問いかけに、奏は目を閉じて静かに呟く。
「そうね。やっぱりつらい事や大変な事もあったけど、それ以上に輝く景色も見れたかな。
うん、悪くはなかった……いえ、大変な事もあるけど、きっとよかったんでしょうね。」
「そう……ですか。それはきっと、新しい書をめくるかのように素敵なものだったのでしょうね。
できれば私もその景色を共有できれば……と思ってしまいました。」
にこり、と文香は微かな笑顔を奏に見せる。その笑顔に、何故か奏はどきり、として微かに瞳を逸らす。
「そ、そう。そう言ってくれるのは嬉しいわ。私もまだ駆け出しだけど、一応先輩だし、教えられる事は教えてあげる。
でも……あの人は他人の感情に疎い強権的な部分があるから文香が不安で。主にメンタル面とか……。」
「そう……なのですか？」
きょとん、と小首を傾げる文香に対して、奏は言葉を続ける。
「ええ、普通のプロデューサーはアイドルのメンタルにも配慮するものなの。
常務は……その、その辺無関心そうだから。何かあったら私に相談してくれる？ 多少は力になれると思うわ。」
「はい、解りました。どうもありがとうございます。」
……そして数日後、常務にアイドルになる事を言った文香は、初めてのアイドルとして活動を開始する事となった。
だが、常務も非常に忙しく、新入りアイドルの面倒を見てる余裕など到底ありはしなかった。
かと言って、右も左も分からない文香を一人で放置するわけにもいかない。
苦肉の策として常務が考え出したのは、プライベートで仲がいい（らしい）奏に文香の面倒を見させる事だった。
それを思いついた常務は早速自室に奏呼び出していた。
「―――来てくれたか速水。さて、知っての通り、私は今忙しい。
よって鷺沢に346プロの事を教えるのは君と君のプロデューサーに任せる。以上だ。下がってくれ。」
常務の指示を受けた奏は、早速346プロダクション内部を文香に案内していた。
唐突の常務の理不尽とも言える指示に、思わず奏も深々とため息をついてしまう。
「……全く、美城専務も無茶ぶりしてくれるものね。私だってまだまだ新入りなのに。
ま、文香には縁もあるし、いいけどね。」
そう言いながらも、奏は文香に346プロダクションの内部を案内している。
ご丁寧に、奏特製の内部地図まで用意してある。さらに、彼女がよく使用するであろうレッスン室などを解りやすく案内している。
もしも迷った時に、彼女に見知らぬ人に対して道を聞くなど器用な事は難しいかもしれないので、
念のためにそうしているのだ。
「申し訳ありません……。奏さんもお忙しいのに……。」
「いいのよ。まだ新入りだからスケジュールには余裕あるし。
文香を一人で346プロに放り込むのは流石に不安だし……。
もし、私がいなくて何か聞きたかったら私のプロデューサーに聞いてちょうだい。話は通してあるわ。」
その奏の言葉に、文香は深々と奏に対して頭を下げる。
「はい。どうもありがとうございます。奏さんには何から何までお世話に……。
本当は私の方が年上なのでしっかりしないといけないとは思っているのですが……。」
「気にしないで。この業界は年齢じゃなくて、芸歴がある方が先輩なのが通例だから。
346プロにも子役の頃からこの世界にいる人もいるみたいだし。」
と、レッスン場や346プロの内部について文香に色々教えてる奏は一人の少女を見かけて足を止めた。
そして、その少女に対して後ろから声をかける。
「あ、ありすちゃん。ちょっといいかしら？」
「橘です。ありすと呼ばないでください。」
そのありすと呼ばれた可愛らしい少女は、奏の言葉にむすっとした表情で言葉を返す。
どうやら、下の名前で呼ばれるのが不本意らしい。むーっと唇を尖らせているありすに対して、奏は軽く謝る。
「ごめんね。文香。こちら橘ありすちゃん。私たちと同じ、プロジェクトクローネの一員よ。」
「初めまして。ありすちゃ……いえ、橘さん。私は、鷺沢文香と申します。どうぞよろしくお願いいたします。」
奏の紹介に対して、にこり、とほほ笑む文香を見て、ありすは顔を赤くしながらも彼女に対して言葉を返す。
「は、はい。橘ありすです。よろしくお願いします。では、鷺沢さんも……？」
ありすは文香を見て、多少顔を赤くしながら文香の顔を見る。
子供っぽい名前で悩み、早く大人になりたいと願うありすから見れば、
綺麗で理知的で大人っぽい文香はまさに理想の女性そのものだったからだ。
そんなありすに対して、文香は穏やかに微笑みかける。
「はい、そうです。私もクローネの一員になる予定です。どうぞよろしくお願いいたします。
では、橘さんとそうお呼びしてもよろしいでしょうか？。」
目をきらきらさせて色々な事を話すありすと、微かに微笑みながらそれを頷いて聞いている文香の姿を見て、
奏の胸内部に何とも言いようのないもやもやした物が溜まっていくのが感じられた。
「……文香。他の所も案内しなくちゃいけないから、そろそろ行かないと。」
その心のもやもやが何か分からないまま、奏は無意識にそう言葉を言い放っていた。それに驚いたのは奏自身だった。
周囲が見ているように、大人らしくあろうとする自分はこんな些細な事で動揺しないと思っていたからだ。
「はい。解りました。ありす……いえ、橘さん。それではまた後でお話ししましょう。」
「はい。鷺沢さんもお気をつけて。」
そう言いながら手を小さく振って別れを告げる文香を見て、
胸の痛みについ先をせかしてしまった事を誤魔化すために、
奏は口元にわざと笑みを作り、文香に対して話しかける。
「ふふっ、橘さんってば、文香に見惚れちゃってたみたい。
橘さんは大人っぽくなるのが目標だから、文香は理想の女性に見えたみたいね。」
「私に……ですか？ 魅力のない私に憧れるなんて……ありえないと思いますが。」
その文香のセリフに、奏は思わず唇を尖らせて抗議をする。
「もう、だから何度も言ってるでしょう？ 文香は綺麗なんだから、もっと自信持つ事。いいわね。」
だが、その言葉に文香は素直に頷かなかった。
今まで通りすがりざまに様々なアイドルたちを見たが、誰も彼も皆、綺麗だったり可愛らしい女性ばかりだった。
自らの容姿に自信がない文香が、そんな彼女たちを見てさらに自信を喪失しても不思議ではない。
「皆さん私の事をその、魅力的とおっしゃいますが……正直、皆さん綺麗な方ばかりで……。
そんな人たちから評価をいただくのは、その、慣れていないというか……。
私なんかよりも、奏さんの方が遥かに素敵だと思います。
肌の色も白いし、瞳の色も素敵ですし……。ほら、髪だってこんなにサラサラで…。」
そう言いながら、文香はそっと奏の首筋に手をやって髪を手で梳く。
その文香の仕草に、思わず奏の胸はどきりと脈打って顔が赤くなってしまう。
「ち、ちょ、文香。顔近い。」
いきなり立ち止まって奏の髪を手ですく文香を見て、奏は顔を赤くしながら文香から離れる。
唐突にこんな事を文香がするなんて全く予想していなかった奏は、思わず完全に動揺してしまったのだ。
「ん、んっ。それじゃ、レッスン室行きましょうか。
トレーナーには話を通してあるから初めてのレッスン……まずは体力測定から始まると思うわ。
トレーナーさんも専門家だから、そこまで心配する必要はないと思うけど。」
そして、レッスン室で奏と一緒にレッスンが始まった。
もっとも、初めての文香はまずは体力測定からだが、その体力測定でもう文香はへとへとになってしまっていた。流石にこれは、奏もトレーナーも予想外だった。
ジャージ姿の文香にペッドボトルの水を渡しながら奏は話しかける。
「うーん、まさか文香がここまで体力がないとは……。いえ、本の虫だったから当然と言えば当然かもしれないけど……。トレーナーさんも色々考えてみるとは言っていたけど、私たちの方でも色々考えてみる必要もありそうね。」
「も、申し訳ありません奏さん……。何分、今まで本の虫だったもので……。
本を運ぶ筋力はそれなりにあるのですが……。」
はあはあ、と息を切らしている文香は、渡されたペッドボトルの水を美味しそうに口に運ぶ。もっとも、クローネとして、早急に戦力になる必要がある。
あの常務は、役に立たない存在は即時に切り捨てる可能性もあるからだ。
少なくとも、ライブができるような体力を最低限作らなくては話にならない。
「とはいうものの、私も体力作りに関しては素人だし……。そういうのに詳しいアイドル……。あ。」
ふと、そこで何かを思いついたらしい奏は、携帯を取り出すととある所に電話をかける。どうも先輩らしき人に電話をかけているらしく、非常に丁寧にお願いをしているようだ。
それはそうだ。芸能界において芸歴、先輩というのは絶対的な物である。
その先輩に頼み事をしようというのだ。丁寧になるのも当然だろう。
だが、電話先の人物は快活な人物らしく、実にあっさりと奏のお願いを承諾したらしい。
電話が終わった後、奏はほっ、と息を吐く。
「これでよし。それじゃ文香。貴女に会わせたい人がいるわ。」
……そして、そのしばらく後。
「こんにちわ！ 初めまして！ 貴女が文香ちゃんですね！ 私は日野茜と言います！ よろしくお願いします！」
河川敷で、文香は一人の女性と会っていた。いかにも明朗快活と言わんばかりの元気が溢れ出ている女性。奏たちの先輩とも言える女性アイドル、日野茜である。茜はにこにこと笑いながら大声で文香に挨拶をする。
だが、今まで体育会系の人間とは縁遠かった文香は、その彼女に面喰ってしまう。
「あ、……はい。鷺沢文香、と申します。よろしくお願いいたします……。」
その小さな文香の言葉が不満だったのか、茜は大声で文香に対して叱咤する。
「声が小さい！ もっと大きな声で！」
「あ、はい……！ よろしくお願いいたします……！」
その茜の大声に対してびくん、となりながらも、何とか（文香にしては）大声を出す。その声に満足したのか、茜は大きく頷くと、続いて文香に対して話しかける。
「よろしい！ では地獄の特訓、もとい茜の特訓を始めます！ では、走りますよ〜！」
そう叫ぶと茜は全力疾走で道路を疾走し始めた。
そのあまりの速度に呆然としながらも、文香も思わず走り始めるが、茜の速度に比べればまさしく亀とアキレスほどの違いがある。
「ま、待って下さい茜さん……！ 私にはこれが限界で……！」
そんな疾風のような茜の疾走に比べ、文香は文字通り亀のごとき遅さでひぃひぃと言いながら遅々としながら走り出す。その文香の声を聞いて、茜は全力ダッシュで文香の元へと戻ってくる。
「む！ すみません文香ちゃん！ つい自分のペースで走ってしまいました！ まずはじっくりと文香ちゃんのペースで走ってみてください！」
その言葉通り、文香が普通の人からすれば競歩と同じペースで必死になりながら走っている文香を茜は後ろからじっくり観察する。
「文香ちゃん！ まずは文香ちゃんはランニングフォームを変えましょう！
文香ちゃんにあったランニングフォームを私が教えてあげます！ そうすれば疲れない走り方を身に付けられるはずです！」
そう言いながら、茜は文香にランニングフォームを教え出す。
まずは踵から着地するのは脚に負担がかかってしまう。できるだけ足の裏全体で着地する事。そして歩幅を細かくし、着地を短くする。
体の中心を意識して体重移動をスムーズにする事、さらに呼吸のリズムを教えてできる限り文香が楽に走れるように教え込んだ。それを聞いて、文香は思わず関心する。
「なるほど……。運動というのは効率的な事が重要視されるのですね……。
私は本の上の知識しかありませんから……こういった運動面での知識を実際に使う事は初めてです……。」
「まあ！ それでも最後に物を言うのはやはり根性なのですが！ さあ！ 文香ちゃんまだまだ行きますよ〜！」
そう言いながら、茜はのろのろと走る文香の後ろをついていく。
もちろん、ただ見ているだけではなくて、きちんと文香の体力を見定めて、どこまで走れるのか観察していた。元々彼女はラグビーのマネージャーである。
そういう観察眼はマネージャー経験で磨かれていたのである。
「はあ、はあ……。もう走れないのですが。」
文香が限界に近い事を知った茜は、文香に対して休憩を取るように指示を出す。無理をしすぎても逆効果になる事は、マネージャー経験からよく知っていたからだ。
「うん、頑張りましたね！ さあ、ゆっくり休みましょう！ 水分補給をしっかりしてストレッチもしてください！ でないと明日筋肉痛になってしまいますからね！」
そう言いながら、茜は文香のストレッチを手伝ったり、彼女にペットボトルの水を手渡したりする。
「そう言えば……茜さんは何故アイドルを目指されたのですか？」
何とか一息ついて落ちついた文香は、ふと茜に対して気になった事を聞いてみる。そして、返ってきた答えは実に単純明快な物だった。
「何故ならば！ そこにトップがあるからです！ アイドルとはトップをねらうお仕事と聞きました！ ならばそれを狙うのは当然！ そこに意味などありません！」
その茜の答に、何故か文香は深く感心する。
「なるほど……。実に深い答えです。やはりアイドルを目指すのならば貪欲なぐらい向上心か必要なのですね……。流石……年下なのにアイドルとして先輩……ですね。」
それからしばらくして、何とか茜の特訓によりＬＩＶＥで踊れる程度の体力をつけてきた文香は、美城常務の執務室へと呼ばれた。
そこには、他のクローネメンバー全員が揃っていた。
彼女たちの前で、美城常務は宣言する。
「よし、揃ったな。これよりプロジェクトクローネ、始動する。
君たちはアイドルの中でも特に選ばれたお姫様だ。それを弁え、人々の羨望を集める輝ける存在である事を自覚しろ。有り得ないとは思うが……もし万が一何らかの不祥事を行った場合、私は遠慮なく斬り捨てる。そのつもりでいたまえ。……まあ、普段通りに振る舞っていれば問題はないとは思うが。」
「「「はい！！」」」
ついにプロジェクトクローネとしての活動が始まりつつある中、文香は茜の特訓で地道に体力をつけながら、クローネの一員となるべくレッスンの日々を過ごしていた。
人付き合いの苦手な文香ではあったが、コミュ力の高い唯やフレデリカなどがいてくれるため、どうにかこうにかクローネ内部でもやっていける状態である。もちろん、仲が良好な奏やありすとの関係もあってこそということは言うまでもない。
レッスン室で、文香のレッスンを見ながら、ペットボトルの水を口に含みながら、ジャージ姿の奏は呟く。
「しかし……文香も凄いわね。美城常務にスカウトされて一気にプロジェクトクローネ入りなんて。まさに文字通りのシンデレラね。」
「当然です。文香さんは素敵な女性ですから。」
その奏の言葉に、ありすは、何故が自分が褒められたかのように、胸を張って言葉を返す。奏もそんな彼女に対して思う所はあるが、わざわざそれを口に出すほど子供でもない。
「でも……気になるわね。ほら、私や橘さんだって初めは小さな舞台からだったでしょう？それがいきなり大舞台に出るなんて……どこかで歪みが出るんじゃないかしら？」
「そ、それは……でも大丈夫です！ 文香さんですから！」
ある意味、盲目的なほどの文香への憧れを見て、奏ですら思わず心配になってくる。
「……橘さん、文香の事よっぽど慕ってるのね。」
「はい！ 文香さんは知的で美人で私の理想の女性ですから！」
「そう、けどね橘さん。私たちはアイドルであってお互い仲間だけれどライバルでもあるの。例えばＬＩＶＥバトルで、貴女は文香と戦えるかしら？」
その言葉に、ありすは思わず動揺する。奏の言葉は真実そのものだったからだ。ありすもアイドル同士がライバルであり、どんなに仲が良くてもＬＩＶＥバトルで戦う事もあるという事は知っている。
けれど、今だ駆け出しアイドルである彼女には、その実感はまだない。逆にいえば、無いからこそあれほど文香を慕えるのだとも言える。
「そ、それは……。奏さんはどうなんですか？ その、文香さんと、戦えるんですか？」
そのありすの言葉に、奏は何の迷いもなく答える。
「ええ、それがアイドルだもの。仲良しこよしごっこで渡っていけるほど、この世界は甘くはないわ。……最も、アイドル同士の絆や友情を否定するわけではないけれど。」
その凛、とした奏の言葉に、ありすは僅かながら顔を落として小さく呟く。
「私には……そこまで割り切る事は……できそうにありません。」
その言葉に、奏も思わず苦笑を浮かべる。
「そうね。でもそこまで深く考える必要はないんじゃないかしら。まだ駆け出しの私たちがお互い戦う事なんてないだろうし。そんな簡単には割り切れないわよね。ま、そんな先の事を考えるより……目の前のレッスンを頑張りましょう。」
そうありすに言葉をかけ、奏は彼女に向けて軽くウィンクをした。
そしてその後、プロジェクトクローネとしてデビューを果たし、シンデレラプロジェクトとの定例合同ライブの後、彼女たちとの交流はクローネたちにも大きな影響を与えていた。（その時に慣れていない文香が倒れるというパプニングはあったが。）
今までお互いに対して無関心……というか必要最小限の交流しかなかったのがお互いに交流を行うようになったのだ。お互いを知る事によって、クローネたちの交流はより深まりお互いにいい影響を与えていた。（常務は認めたくはなさそうだったが）
そんな風に、クローネの仕事も軌道に乗り始めた頃、常務は、彼女たちに対して一つの命令を下した。
「……ＬＩＶＥバトル？」
訝しげに、奏は常務のその言葉に問い返した。
「そうだ。君たちにはＬＩＶＥバトルを行ってもらおう。不満か？」
「いえ、不満ではありませんが、唐突で意図が読めないというか……。」
ふむ、と常務と頬に指をあてる。ただ上から頭ごなしにＬＩＶＥバトルを行え、と言うだけではいらぬ反感を買うし、彼女たちのモチペも上がるまい。そう判断した常務は彼女たちに対して説明をする事にした。
「君たちのお陰でクローネの名は皆に知れ渡りつつある。だが、一方で『金をかけただけのハリボテ』『実力は大した事のないゴリ押し』という評判もあるのは事実だ。この状況を打破するためには、ＬＩＶＥバトルで君たちの実力を皆に知ってもらう必要がある。例え、負けたにしても、君たちの力を示す事ができたのならば、もはやゴリ押しなどとは呼ばれまい。」
なるほど、とクローネの皆はその言葉に納得する。彼女たちも裏で懸命の努力を重ねてきたのに、それを無視されて金をかけただけ、などと言われては面白くない。そんな人たちの認識を自分たちの実力で改める事ができるのなら、やりがいもあるというものだ。
「さて、プロジェクトクローネ初めてのＬＩＶＥバトルではあるが……社内や社外の人間を黙らせるためには、君たちの実力を世間に示さなくてはならない。解るな。」
「でも……私たちの実力を示すＬＩＶＥバトルなんて、どうすれば。」
その凛の疑問に対して常務は答える。
「簡単だ。強い相手と戦い、それを打ち倒せばいい。そうすれば、誰も君たちに対して陰口を叩く人間はいなくなるだろう。」
「それは……つまり？」
不穏な物を感じさせる常務の言葉に、奏は思わず問いかける。
「―――高垣楓。346プロ最強のトップエースアイドルと君たちには戦ってもらおう。」
その常務の言葉に、クローネの皆は一斉にざわめきだした。
「―――そんな！？いきなり楓さんと何て……！」
高垣楓。
それは346プロの中でも最高にして最強のトップアイドルである。相手プロダクションとのＬＩＶＥバトルの際、たった一人で敵アイドルたちに対して無双を行った事はすでに伝説化している。そんな相手に、今だ新入りのアイドルである彼女たちが勝てるとは到底思えない。
「勝てる相手ではないと思って諦めるか？ 別にそれでも構わんが……クローネメンバーとして出遅れる事になるぞ？ まあ、流石にＬＩＶＥバトルを行った事のない鷺沢と橘は今回は見学にするつもりだが……。私はシンデレラプロジェクトみたいにクローネを仲良しこよしにするつもりはない。戦う気のない者の評価はどんどん下げていく。」
その常務の言葉に、クローネメンバーはしん、と静まり返る。
彼女はやる、と言ったら何としてもやる女性だという事は皆知っているからだ。それは社内であれほど反発されながらも改革を行った事からも明らかである。静まり返った室内に、奏は片手を上げて常務に問いかける。
「一つ確認なのですが……今回のＬＩＶＥは必ず勝て、という訳ではないのですね？」
「ああ、今回は君たちのアイドルとしての実力を周囲に見せる、という側面が大きいからな。極論、負けても構わんが……大差で惨めな敗北は許さない。
例え負けるとしても、食い下がり、君たちの実力を見せる事だ。それさえできるのならば問題はない。無論、勝てたら大金星で文句はない訳だが。」
「……分かりました。努力します。」
「話は以上だ。下がりたまえ。」
その言葉にクローネの皆は常務の執務室から出て、自分たちのプロジェクトルームへと移動する。だが、いきなりトップアイドルと戦えと言われても、正直どこから手をつけていいか分からない状態だった。
「……どうしよっか。」
「……まずは楓さんの今までのＬＩＶＥバトルを見直しましょう。
後はトレーナーさんたちに相談して歌やダンスレッスンの向上を行います。
このまま大人しく負けを認めるのもカッコ悪く惨めに終わるのも私は嫌。
だから―――やれるだけやってみましょう。」
決意に満ちた奏のその表情に、クローネのメンバーである唯は声を上げる。
「おお〜。奏ちゃん言う言う。そうだね。ゆいも何もしないまま負けるのは嫌かな〜。せっかくならさ！ やれる所までやろうよ！」
その唯の言葉にクローネのメンバーは一斉に賛同の声を上げる。
あのライブまでお互いに無関心だったクローネだったが、シンデレラプロジェクトとの交流をきっかけに、お互いの交流ができつつあったのである。
そして、楓に対抗するための特訓を開始するクローネメンバーの一方、一人の男性が美城常務の部屋を訪ねていた。
今西部長。
シンデレラプロジェクトの関係者であり、常務が頭が上がらない数少ない人物の一人である。クローネメンバーたちがトップアイドルである楓と戦うと聞いて、彼女に意見しにきたのだろう。
「やれやれ。君はアイドルに対しても厳しいねえ。正直、彼女たちでは楓くんに勝つのは難しいと思うのだが。」
「それでも構いません。勝てればそれに越した事はありませんが、一度敗北し、それでもくじけずになお立ち上がる。
皆が好みそうなストーリーではありませんか？」
その彼女の言葉に、部長は思わずゆっくりと首を振る。確かに彼女の意見には一理あるが、何事も強引すぎるのが彼女の悪い癖である。
「だが、少し急すぎはしないかね？ もう少し経験を積んでからでもいいのでは？」
「クローネには予算をかけてきました。彼女たちにはそれ相応の結果を出してもらわねば困ります。ですが、アイドルにはそれぞれの個性や適した舞台、また弱点があるのもまた事実。そのために鷺沢と橘は今回のライブから外しました。彼女たちにはまだアイドルとしての強度が足りない。そんな彼女たちに対して無理を強いる事は得策ではない。それは私もあのライブで学びましたので。」
彼女の言葉に今西部長はやれやれ、と笑みまじりのため息をついた。それはつまり、彼女もシンデレラプロジェクトに学ぶ所があったという事だ。
素直ではない彼女は、散々否定していたシンデレラプロジェクトから学ぶ所があるなどとは決して認めないだろうが。
「やれやれ。君の素直じゃないねえ。
まあいいさ。どうやらいい方向に進んでいるようだからね。」
―――それからの数週間、奏たちは対楓用のＬＩＶＥバトルの研究と猛特訓を行っていた。まずは、楓の持ち歌「こいかぜ」に対しての研究である。
この歌は彼女の持ち歌であり最も得意とする曲である。過去、多くのアイドルたちが楓とこの歌で戦い、敗れ去っていった。この歌に対して、楓と並んで歌う際にどういうパフォーマンスをしてより観客から多くのポイントを取るか。
そして、楓の圧倒的歌力に飲み込まれないようにするか、奏たちはトレーナーたちの力を借りて様々な対策を行っていた。
今回のＬＩＶＥバトルの形式は、二人、もしくは楓とユニットが同時に同じ曲を歌い踊る事によって、どっちの歌声やパフォーマンスが上か観客たちにアピールする形式である。当然の事ながら、歌っている相手に対する邪魔や妨害などは紳士……もとい淑女規定の内に禁止されている。
「ウケを取るためにはさ、もっとこうぱーっと派手なダンスな方がいいんじゃないかなー。」
「いえ、こいかぜはスローバラードな曲よ。あんまり派手に飛んだり跳ねたりするのは返って違和感を感じさせてしまうわ。だったら、楓さんの動きとシンクロさせてユニットとして見せかけた方が観客への受けがいいと思うわ。」
「うーん、でもまだＬＩＶＥ経験の浅い私たちにそこまでできるかなぁ……。」
「負けたくないなら、やるしかないだろ！ あの楓さんと勝負できるなんてそうそうないしな！ あ、でも加蓮は無理は禁物だからな！」
加蓮の不安そうな声に、奈緒は声を上げて加蓮を励ます。その声にクローネの皆は思わず笑い声を上げる。シンデレラプロジェクトとの交流により、クローネの皆も談笑できるほどの仲になっていたのだ。
ＬＩＶＥバトルにおいて、相手アイドルは機械によってランダムに選ばれる。向こうは一人であるが、こちらは誰が選ばれるか分からないのだ。故に、クローネメンバー皆が楓に対抗できるようにしておかなければならない。逆に、楓は一人でクローネメンバー全てを倒さなければならないのだ。
長時間の連戦となれば、流石の楓もダンスの切れが鈍るかもしれない。ある意味姑息ともいえる考えだが、駆け出しのアイドルがトップアイドルに戦うなど、それぐらいしなくては対抗できない、というのが彼女たちの考えだった。
―――そして、ＬＩＶＥバトル当日。
そこには、緑を基調とした自らの衣装に身を包んだ高垣楓と、それぞれの衣装に身を包んだクローネメンバーの姿があった。新進気鋭のクローネがトップエースアイドルの高垣楓を打ち破るか。それともやはり楓がクローネを打ち破るか。
注目されているそのＬＩＶＥバトルに、大勢の人が詰めかけた。
そして結果は―――やはり、大方の予想通り、楓の連勝だった。クローネのメンバーたちもやはり必死で努力して健闘してはいるが、やはりトップアイドルとは色々な差が大きすぎた。
トライアドプリムスも奏も唯もフレデリカもアナスタシアも―――全てが楓の前に敗れ去ってしまっていた。もちろん、皆も必死で楓に対抗するためにＬＩＶＥを行っていたが、いかんぜんアイドルとしての資質が違う。
彼女たちが放つ光は、全て楓という眩い光に飲み込まれていった。
「はあ……。はあ……。」
ただ一人、最後の奏は最後の最後まで彼女に対して粘り強く戦っていたが、それも時間の問題だった。あの憧れているアイドルと舞台を共にできているのだ。ここで終わる訳にはいかない。
私は―――まだやれる！
だが、そんな彼女の決意を、楓はいともたやすく打ち砕いた。
「頑張るわね。奏さん。でも―――これで終わりにしましょう。」
そして、最後の奏とのＬＩＶＥバトルが終わった。
結果は、やはり奏の敗北。楓はたった一人でクローネメンバー全てを打ち破ったのだ。その状況に、ＬＩＶＥバトルを見ていたありすと文香は呆然としていた。クローネたちの懸命な努力を目にしていた二人は、もっと戦えるのではないか、と思っていたからだ。
だが、健闘はしたものの、たった一人でクローネ全てを打ち破るなど尋常ではない。呆然としている二人の横で腕を組みながら表情を変えずに美城常務は言い放つ。
「二人共よく見ておくがいい。あれが君たちクローネが乗り越えるべき壁。
346プロダクション、トップエースアイドル、高垣楓だ。」
「あれが……トップアイドル。」
輝く光の中、優雅に手を振る楓を見て、文香は呆然と呟く。あれが私たちアイドルが超えなければならない高い壁。しかも、彼女よりさらに上のアイドルすらいるという。果たして自分がそんな高みにまで辿り着けるのか。思わずめまいすら覚えてしまう。
だが、そんな文香の不安を他所に、美城常務はさらに言葉を放つ。
「そうだ。君たちには彼女を乗り越え、トップアイドルを目指す気構えがないと困る。日々研鑽し、自らの輝きをさらに増すよう努力したまえ。」
それだけ言い残すと、常務は颯爽と身を翻し、その場を立ち去っていった。
「やっぱり……アイドルの世界は華やかだけじゃなく、厳しい世界なんですね。」
アイドルの世界の厳しさを見て、どことなく不安そうにありすは呟く。
「ええ。でもだからこそ、地道な努力の積み重ねが物を言うと思います。
私たちは私たちのやり方で……一歩ずつ地道に努力していく事が重要だと思います。だから、頑張りましょう。ありすちゃん。」
「はい！ 文香さん！」
―――そしてＬＩＶＥバトル終了後。
ライブ用の可憐な衣装から通常の服へと着替えた楓は、家に帰ろうとＴＶ局の中を歩いていた。
「……あの、楓さん。少しお話があるのですが、よろしいですか？」
そう声をかけてきたのは、同じように私服を来た奏である。そんな奏に対し、楓はにこり、と笑いかけると奏の言葉に答える。
「いいですよ。ここでは騒がしいので近くの喫茶店でお話ししましょうか。
私も少し時間ありますし。」
そして、楓と奏は近くにある喫茶店へと足を運んでいた。
彼女たち二人が喫茶店に入った瞬間、一斉に店内の視線が彼女たち二人に集まる。それはそうだ。こんな神秘的でミステリアスな風貌を持つ女性二人が揃って歩いているのに人目を引かない訳がない。だが、二人はそんな事を気にせずにそれぞれ注文を頼んだ。
「楓さんは、私たちとＬＩＶＥバトルをしてどう思いましたか？」
ふむ、と楓は頬に指を当てて考えこむと、奏に向かって言葉を放つ。
「そうね。アイデアとしては悪くなかったと思うわね。けど、まだまだね。私のダンスや曲をよく研究していたとは思うけれど、ね。」
そう言いながら、楓は奏に対してウィンクをする。その仕草は、女性である奏すらもどきり、としてしまうほどの魅力を秘めていた。
「と、いうものの、貴方達もデビューしたばかりなのでしょう？正直、よくやっていると思うのだけれど……。」
それはもう言われた。
あの厳しい美城常務にすら「君たちはよくやった。よくあそこまで食い下がる事ができた」と言ってくれたのだ。確かに出来たばかりのプロジェクトであそこまで食い下がれれば上出来と言えるだろう。
だが、それは裏を返せば『勝てるとはまるで思われていない』という事だ。
それは、悔しい。
確かに、アイドルとしては駆け出しとしての彼女たちがトップエースアイドルである高垣楓に勝とうなどというのはおごがましい。
あの憧れの高垣楓とＬＩＶＥバトルできただけでも胸がいっぱいで十分ではないか、という思いもある。だけどそれでも、勝ちたかったのだ。
……正直、自分でもこんなに負けず嫌いだったのかと意外ではある。
「楓さん、私はまだアイドルデビューしたばかりの駆け出しです。
多少は知名度も上がってきましたが、それはあくまでクローネの一人として大々的に宣伝されているからの事。だけど―――それでも、いつかは、憧れの貴女に勝ちたい。貴女を凌ぐアイドルになりたい、とそう思うのです。楓さん、私が楓さんに肩を並べるためにはどうすればいいのでしょうか？」
その失礼とも生意気とも言える奏の質問に対して、楓は特に怒りもせずににこり、とほほ笑みながら答える。
「そうね。それは多分、私にはあって貴女には無い物が必要かしら。それが何だか解るかしら。」
その楓の質問にきょとん、としながらも奏は少し考え込みながら答える。
「それは―――やはりカリスマ性とか？」
その奏の言葉に、楓はゆっくりと首を振りながら答える。
「違うわ。『戦友』よ。貴女に必要な物は、ね。」
―――数日後。
プロジェクトクローネの皆は346プロダクションの自分たちのプロジェクトルームへと呼び出されていた。仔細は聞いていないが、わざわざ彼女が部屋に来て直々に話があるというのだから、何らかの大きなイベントではないか？と彼女たちの間では噂だった。
そして、常務が来るまでの間、基本的にフリーダムであるクローネの面々は各々好きな事をやっていた。
「へえ、『生存本能ヴァルキリア』ね。」
そして、その間、部屋のソファーで奏は文香から渡された一枚のチラシを見ていた。
そこには、凛々しい軍服姿でポーズを決めている新田美波やありす、文香などが映されていた。
『生存本能ヴァルキリア』
それはクローネとはまた異なる新しいユニットである。心優しい少女たちが生き残るために戦う事をモチーフとしたそのユニット評判も良く、クローネたちの間でも話題になっていたのである。
「はい、ありすちゃんと一緒に新しいユニットという事で行ってみたのですが……。どうにも、こう、きりっとした表情や軍服というものは違和感が……。
今までの私とは全く異なるものでしたから。」
「いいじゃない。こういう凛とした文香、私は好きよ。」
「はい！ 凛々しいカッコいい文香さんはネットでも大好評です！」
顔を高揚させながら力弁するありすに対して、文香は照れながらも微かに微笑んで言葉を返す。
「ありがとう。ありすちゃん。そう言われると、気恥ずかしい物がありますが……皆から好評という事は、アイドルとしては正しい事なのでしょう。
ところで……今日は美城常務から呼び出されたという事は、新しいイベントか何かなのでしょうか？」
「さあ……私も聞いてないのよね。何の話なのかしら……。」
そんな風に皆がわいわいと話していると、がちゃりとドアを上げて美城常務がクローネの部屋へと入ってくる。その瞬間、皆が背筋を伸ばして一斉に挨拶をする。
「「「おはようございます。」」」
「おはよう。さて、今日皆に集まってもらったのは他でもない。今後のクローネの方針についての事だ。」
挨拶もそこそこに、常務は本題を切り出した。この性急さはいつもの事なので別段誰も驚きはしない。だが、その常務の口振りに、皆少し不安感を覚えてしまう。
「あの……それは方向性を変えるとかそう言う事でしょうか？」
「いや、現在君たちは十分な成果を出せている。ここで方向性を変えるような愚かな真似はしない。クローネのコンセプト、誰もが憧れるような非日常なアイドルを作り出すというのは不変のままだ。」
その言葉に、クローネの皆はほっと息をなで下ろす。
何せ、前科のある常務の事だ。ここで一気に方向転換などされてはたまったものではない。
「君たち、クローネには宣伝費など多大な出費を行っている。それゆえ、結果を出すのは当然の事だ。だが、私は君たちにはそれ以上の事を求めていく。
そして、そのためには常にお互いに切磋琢磨していく必要性がある。」
そこで一つ息を飲むと、常務は次の言葉を続ける。
「君たちには、クローネ同士でＬＩＶＥバトルを行ってもらう。
クローネはシンデレラプロジェクトほど甘くはない。単純な仲良しこよしでは困るのだ。仲が悪くなって仕事に支障をきたすようでも困るがな。」
一瞬の沈黙。
それはクローネの皆が困惑している事を意味する。
今まで、ユニット内部でＬＩＶＥバトルを行うなど聞いた事がなかったからだ。ユニット対ユニットのＬＩＶＥバトルならよくある事だが、ユニット内部同士のＬＩＶＥバトルとなれば、どうしても同士討ちのイメージが付きまとう。
それを理解したありすは、思わず彼女に向かって言葉を放つ。
「それは私たちクローネの仲間同士で戦えという事ですか？ それはあまりにも……。」
「橘ありす。勘違いしてもらっては困る。アイドル同士は、仲間でもある当時にライバルでもあるのだ。お互いに、負けないように切磋琢磨しなければならない。それがファンの評価にも繋がっていくのだ。もちろん、足を引っ張り合うのは論外だがな。お互いがアイドルとして切磋琢磨するために、クローネ同士のＬＩＶＥバトルが必要になるのだ。」
お互い一定の緊張感を保て、過度ななれ合いはよくはない、というのが美城常務の考えらしい。
もちろん、お互いに仲良くなったり、仲間意識が芽生えるのは一向に構わないが、それに囚われ過ぎてお互いが切磋琢磨しなくなるのは困るということらしい。
確かに、今まではお互いに無関心だったクローネメンバーだったが、文香が倒れてしまった時からシンデレラプロジェクトの影響を受けて、クローネ同士でも急速に仲が良くなりつつあった。
だが、仲が良くなるのは結構だが、あまり良くなりすぎてお互いのライバルである事の緊張感を忘れるな、と常務の言いたい事はそういう事らしい。
「初めは、フレデリカと塩見周子、そして次に鷺沢文香、そして速水奏。この二人で、ＬＩＶＥバトルを行ってもらおう。日時や曲は追って知らせる。」
その言葉に、動揺を示したのは文香だった。
前髪で顔を隠している彼女の表情は見えにくいが、それでも陰鬱な表情である事は解る。
「私は……その……。」
それだけ呟いて、さらに俯いてしまう文香。
そんな文香に対して、常務は不愉快そうに微かに表情を歪める。
「不満か？ 不満だというのならクローネから出ていってもらおう。自ら切磋琢磨して輝こうとしない者はクローネには必要ない。」
その強い言葉に、文香は委縮してますます俯いてしまう。そして、ぽつりと一言絞り出すだけで精一杯だった。
「……少し、考えさせていただいてもよろしいでしょうか……。」
「……まあいいだろう。ただし、私は気が長い方ではない。長くは待たんぞ。」
その後、クローネのプロジェクトルームから肩を落としてとぼとぼと歩いて立ち去ろうとしている文香に対して、後ろから鋭い声で呼び止める者がいた。
「―――文香！」
コツコツ、と足音を立てながら文香に鋭い声をかけたのは奏であった。いつもの奏と違い、奏は鋭い目つきで文香を睨み付けるような強い視線を送る。
「どう言う事……？ＬＩＶＥバトルに積極的じゃないなんて。まさかとは思うけど、私とＬＩＶＥバトルをするのが嫌だから、なんて理由じゃないわよね。」
その奏の言葉に、文香は顔を俯かせながらも何とか答える。
「……私は、奏さんとは戦いたくないんです。奏さんだけには嫌われたくない。
だって、奏さんは、ようやく出来たたった一人の私の……。」
「ふざけないで。文香。」
その文香の言葉を、奏は静かな怒りを宿した言葉で一刀両断した。こんなに本気で怒っている奏は見たことがない。
奏は、いつものミステリアスなペルソナを投げ捨てて感情的に叫ぶ。
「私は貴女の本気が見たいの！ 本気の貴女と戦ってみたい！そう思っている！ 私たちはアイドルなの。仲良しだけの友達だけじゃないの。初めに言ったでしょう？ アイドルの世界は戦場だって。どんなに仲が良くても戦う事もあるって。」
初めて見た感情的な奏を見て、思わず文香も狼狽して一歩下がりながらも何とか言葉を放つ。
「そ、それは……でも……。」
そんな狼狽している文香に対して、奏は冷たい視線を送りながら、冷徹な一言を放つ。
「……それでも私とのＬＩＶＥバトルをしたくないというのなら、文香。
私貴女の事、一生軽蔑するわ。」
「………。」
その一言は、文香にとって一番言われたくない言葉だった。奏は文香にとって、初めて出来た同性の親友である。少なくとも文香はそう思っている。
そんな彼女から、こんな言葉を言われるのは一番きつい事だった。
ギリ、と文香は唇を噛みしめて俯いた後、その場から逃げるようにして立ち去っていった。
「……奏さん。いくら何でも言い過ぎです。あれでは文香さんが可愛そうです。」
文香が走るようにして立ち去った後、曲がり角からありすがひょこっと顔を出して奏に唇を尖らせながら抗議する。恐らくは、偶然ながらも二人の会話を全て聞いてしまったのだろう。
そのありすの言葉に、奏もため息をつきながら言葉を放つ。
「橘さん。……そうね。私も感情的になって言いすぎた部分はあるわね。
後で謝っておく必要はあるわね……。けどね、あれは私の本心なの。
私は、本気の文香を見てみたいと思っている。文香なら、もっと高く青い空を飛べるはずなんだから。」
遠い目をしてそう呟く奏に対して、ありすは思った疑問を思わず口にする。
「……どうして、プロジェクトクローネである私たちが戦わなくてはいけないんでしょうか……？ 別のユニット同士というのなら話は分かります。けれど、同じユニット同士である私たちが何故……。私たちは、仲間、なのに。」
「同じプロジェクトの二人だから、仲がいいからＬＩＶＥバトルで戦わないと思った？ ……それは違うわ。橘さん。前にも言ったけれど、仲が良くても、親友同士でも、私たちはライバルでもあるの。それが―――アイドルなのよ。」
「……。」
その言葉に、ありすは唇を噛みしめて俯いた。彼女も奏のいう言が正論だとは分かっている。アイドルの世界は楽しいばかりでもないし、光輝いているばかりでもない。つらいことや悲しい事、仲間同士で争う事もある。
それこそがアイドルなのだ。
心配そうに顔を歪めるありすに対して、奏はにこり、とほほ笑みかける。
「安心して。橘さん。別に文香の事を嫌いになるとかじゃないわ。ただ、私は本気の文香と正々堂々戦ってみたいだけ。それだけなのよ。」
「……奏さんは、どうしてそこまでして文香さんと戦いたいんですか？
確かに、美城常務の命令だからというのは解りますが、そこまで固執する理由が……。」
そのありすの言葉に、奏は静かに目を閉じて呟く。
「……私はね、文香を認めているの。そのアイドルとしての実力、ポテンシャル、ビジュアルをね。けれど、文香は自分自身の実力を否定している。自分にはそんな力がないと思っている。何の価値もないと思っている。私は、それが許せない。文香には、力が、価値があるという事を彼女自身に知らせてあげたいの。」
「……戦う事で、ですか？ でも、負けてさらに自信を喪失してしまったら……。」
文香は、自分自身の事を「私なんて紙魚程度の価値もない」と発言している。
ただでさえ自分自身に自信が持てない文香が、さらに自信を喪失したらどうなるか。下手すればアイドルを辞めてしまう事すら繋がりかねない。
「……何とかしてみせるわ。何とかね。」
唇を噛みしめた奏は、何とかその言葉を絞り出した。
「はあ……。」
その後、奏から逃げ出すようにあの場を立ち去った文香は、気分を落ち着けるために346プロダクションのオープンカフェへと身を寄せていた。
正直、頭の中がぐちゃぐちゃでどうしたらいいか全く分からない。
そんな混乱状態で深々とため息をつく彼女に対して、一人の女性が文香に対して話しかけてきた。
「おや？どうしましたか？ため息なんかついちゃって。
ふー、美嘉ちゃんでも見ちゃいましたか？文香ちゃん。なんちゃって。」
そう言ってくすくすと小さく笑いながら文香に話しかけてくるのは、コーヒーを飲んでいた346プロダクション、トップエースアイドルである高垣楓である。
まさかあの高垣楓が、自分のような駆け出しアイドルに声をかけてくるとは。
今まで彼女の事を知らなかった文香だったが、アイドルの世界に多少いた文香は、彼女がどんなに偉大なアイドルであるかを身をもって知る事になった。ましてや、あのクローネをたった一人で撃退したＬＩＶＥバトルを近くで見てしまったのだ。それがどれほど凄い事であるかは、アイドルになってみた彼女にとっては、骨身にしみてよく解る。
「高垣楓……さん。何故、私なんかに？」
「いえ、ため息をついておられるので、どうかしたのかと。私でよければ、相談に乗りますよ。文香ちゃんは、プロデューサーがいなくて、美城常務直属と聞きましたし。プロデューサーがいないと何かと大変でしょう？ とくに精神的にも。」
にこり、と華のように微笑む楓。その笑みを見てると、彼女がトップアイドルである事を忘れそうになってしまう。その笑顔に釣られるようにして、文香はおずおずと彼女に向かって話しかけてみた。
「あの。」
「？」
「楓さんは……ＬＩＶＥバトルで負けて悔しい思いをしたことがないのでしょうか？楓さんほどの人なのなら……負けた事などきっとないのでしょうが。」
その文香の問いかけに、楓は目を閉じて静かに答える。
「それは、当然あるわよ。何回も何回もね。辛いし、悔しい思いもしたことはあるわ。けどね、それだけじゃない。相手のアイドルと戦っている時に、私の中の輝きが増していくのがはっきり解るの。」
「輝き……ですか？」
きょとん、と小首を傾げる文香に対して、楓はさらに言葉を続ける。
「そう。勝ったとしても負けたとしても、私の輝きはそれで衰えはしない。
むしろ、それを糧にしてさらに輝けるのが自分自身でも解るの。
当然、精神的につらい事もあるけどね。けど、それ以上に得られる物も大きいのよ。」
「得られる物……ですか？ それは、例え負けても、ですか？ でも……それでも私は……。」
そこまで口にすると、文香はまたもや俯いてしまう。それを見て楓は、ふむ、と頬に手を当てて文香に問いかける。
「ふむ。文香ちゃん。貴女は負けるのが怖いの？ それとも、仲間と戦うのが怖いのかしら？」
しばしの沈黙。そして考えた後で、文香は慎重に口を開く。
「多分、後者なんだと思います。奏さんは、初めて出来た私の友人ですから。
その人と戦って、嫌われるのは……。」
その文香の言葉に、楓は目を閉じながらも静かに言葉を放つ。
「そうね。大切な友人といきなり戦え、と言われても困るものね。それをきっかけにして友情が壊れるのは怖いものね。けどね、文香ちゃん。これはアイドルをやっていく以上避けては通れない事なの。今回は避けられても、次もまたその次は避けられないわ。……奏さんは、何か言ってたかしら？」
「はい、奏さんは全力の私が見たいと。本気の私と戦ってみたいとそう言っていました。」
その言葉に、楓はにこり、とほほ笑んだ。
「あら、じゃあ戦うしかないわね。そんな真剣に文香ちゃんと向き合おうとしているのに、逃げたり手加減したりしたら返って嫌われちゃうわね。」
「そういう……ものなのでしょうか？」
小首を傾げて問いかけてくる文香に対して、楓は言葉を続ける。
「ええ、私だって川島さんたちと散々戦ってきたもの。けど、そのたびに仲が悪くなるなんて事はなかったわよ？ むしろ、色々あって仲良くなったかしら。
まあ、そこは人によって違うけれど……ＬＩＶＥバトルでの決着とその後の人間関係は、『それはそれ、これはこれ』で割り切ってる人がほとんどね。
根に持って後で尾を引いてもいい事ないもの。プロとしての処世術かしらね。」
「では……戦ったからと言っても嫌われることはない、と？」
「そうね。けど、後は決めるのは文香ちゃん次第ね。
文香ちゃんはどうしたいの？ 他人から強制されるだけじゃなく、自分自身がどうしたいか。それを考えていけばおのずと答えは出てくるはずよ。」
「……。」
その楓の言葉に、文香は俯いてじっと深く考え込む。
自分は何をしたいのか。奏の真正面からの気持ちに答えたいのか、そうでないのか。そして考えた結果、出てきた答えは一つだった。
「楓さん。私は―――奏さんと戦ってみたいと思います。あんなに真剣に、真正面から私と挑みたいと言ってくれた人は初めてでした。だったら、私は奏さんの気持ちに答えたい。そう思ったからです。」
静かに、真正面から楓を見返しながらそう呟く文香。凛とした文香の碧い瞳に、もはや迷いはなかった。
その決意に満ちた文香の顔を見て、楓は華のようににこりと微笑む。
「そう。なら頑張るしかないわね。私はどちらにも肩入れできないけれど……勝つにしろ負けるにしろ得られる物は必ずあるはずよ。それを糧にして、さらにアイドル活動、頑張ってね。」
「あ、ＬＩＶＥバトルは連続してライブを行うから体力的負担が大きいわ。ましてやそれが勝負となると、ね。体力面に不安があるなら茜ちゃんに相談してごらんなさい。……肩入れしないとは言ったけれど、この程度の忠告なら問題ないでしょう。」
「はい。楓さん。どうも色々とありがとうございます。」
最後ににこり、とほほ笑んで楓はその場を去っていった。そして、文香も表情を改めると、静かに本を抱えながら席を立った。
覚悟が決まった以上、もはややるべきことはただ一つだからだ。
彼女が向かう先はただ一つ、美城常務の部屋だ。
「……では、ＬＩＶＥバトルに参加する、という事でいいのだな？」
その後すぐ、文香は美城常務の部屋へと足を運び、ＬＩＶＥバトルに参加する事を伝えた。
こういうのは後回しにすればするほど言い出しにくくなりそうだったからだ。常務は、その文香の言葉ににこりともせずに淡々と言葉を続ける。
「まあ当然だな。仲間意識は大切だが、それに気を取られ過ぎてアイドルとしての輝きを失うようでは困る。私は君には期待をしている。ＬＩＶＥバトル、自分の実力が発揮できるように頑張りなさい。」
これは、遠回しではあるが、恐らくは文香を彼女なりに激励しているのだろう。その不器用さに、思わず文香は口元をほころばせてしまう。
「……はい。頑張ります。」
―――そして数日後、そこにはジャージ姿で河川敷を走っている文香の姿があった。彼女の傍には、同じようにジャージ姿の日野茜も同伴している。茜に相談してみた結果、いともあっさりと承諾してくれたのだ。
「はあ……。はあ……。」
「文香ちゃん！ 少しオーバーワークぎみですね！ 良くありませんよ！
ちょっと休憩しましょうか！」
速度は遅いものの、必死で汗だくになって走っている文香に対して、茜は声をかけて休みを促していく。文香は、足を止めて息を整えると、茜から渡されたタオルで汗を拭いながら彼女に答える。
「申し訳ありません……。ですが、ＬＩＶＥバトルで奏さんに対抗するためには、それなりの体力が必要が必要かと……。劣っている私が、彼女に対抗するためにはそれぐらいしか…。」
「ですがそれで体を壊してしまっては元も子もありません！
休むのもお仕事です！ 全力で休みますよ〜！」
再び、文香に対してペットボトルの水を渡したりして水分補給を促す茜。そんな中、彼女に対して文香は気になる事を聞いてみた。
「あの……日野さんは、ＬＩＶＥバトルを何度も行った事があるのでしょうか？私は、あまりアイドルについても詳しくないので……。実際の所はどういうものなのか……。」
「茜でいいですよ！ そうですね！ ＬＩＶＥバトルは何度も行った事はあります！ うーん何というか……燃えますね！正々堂々真正面からの勝負！実に燃える物があります！」
「では……スポーツと同じような物だと……考えればよろしいのでしょうか？」
その文香の言葉に、茜は大きく頷く。
「そうですね！ 私はそう思っています！ 確かに勝てれば嬉しいですし、負ければ悔しいですが！ でもそれだけじゃなくて得られる物もあります！ ええとその……充実感というか！ そういう感じの物が！」
楓と似たような言葉に、そう言う物か、と文香は頷く。
「ありがとうございます。茜さん。私も奏さんとのＬＩＶＥバトル……頑張ってみます。」
「その意気です文香ちゃん！ 私は奏さんも文香ちゃんも両方とも応援していますよ！ さあ！ 今日はここまでにしてストレッチにしましょう！」
そう言いながら文香に対してストレッチを行っていく茜。そんな彼女たちを遠くで見守っている人影がある事を二人は知る由もなかった。
「ふふっ、文香随分頑張ってるわね。そうでなくては面白くないわ。私も頑張らないとね。」
「当然です！文香さんはとても真面目で勉強熱心な人ですから！」
それは、文香の様子を見に来た奏とありすだった。
最近、頑張りすぎてオーバーワークぎみな文香を心配して、影でこっそりと見に来たのである。自分たちでも過保護だとは思うが、こればかりは仕方ない。
「でも……まさか奏さんまで様子を見に来るとは思いませんでした。」
「あら？ 私が文香の様子を見に来るのは意外？」
「確かに同じクローネですが……今のお二人は言わば敵同士ですし……。」
その歯切れの悪いありすの言葉に、奏は微笑みながら答える。
「ふふっ。以前も言ったでしょう？確かにアイドル同士はライバルでもあるけれど、同時に仲間でもあるって。文香は、初めて出来た私の同世代の親友だもの。心配して当然じゃない？」
「……奏さんは、友人の多い方だと思っていましたが。」
「残念。私、こう見えても人見知りするタイプなの。他人に中々心を許せないタイプ、というかしらね。そんな私が、文香に対しては心を開けるというのは我ながら疑問だけどね。」
そう言いながらも、奏は折りたたまれた紙を取り出し、中をチェックする。
それは、今度のＬＩＶＥバトルのセットリストである。自分の持ち歌や好きな歌をリクエストする事で決定される。
当然文香なら「Bright Blue」奏は、『Hotel Moonside』である。
そして、奏は文香が最後から二番目に選んだ曲を見て、思わず小さく呟いてしまう。
「しかし……やってくれるわね。文香。」
文香が最後にセットリストに入れてきた曲。
それは出来たばかりの曲『生存本能ヴァルキュリア』だったのだ。
確かについ最近のイベントではあるが、文香はもっと慣れた曲をリクエストすると思っていたのだ。これは、奏の予想外だった。
「奏さんが慣れていない曲で、文香さん自身が慣れているからこの曲を選んだ、という事でしょうか？」
そのありすの言葉に、奏はゆっくりと首を振る。
「文香はそんな小賢しい事のできるタイプじゃないわ。純粋に、この曲なら私に勝てる、と思ったんでしょうね。確かに、あの凛々しい文香は私でも見惚れるぐらいだもの。観客アピールには十分でしょうね。実際、かなり人気が出た、という評判だし。」
「それに対して奏さんが入れたのは……『Absolute NIne』ですか。確かにカッコいい曲ではありますけど……。」
Absolute NIneはそれなりに激しい曲調であり、ダンスもそれなりに体力を消耗する。体力に乏しい文香では、生存本能ヴァルキュリアのすぐ後にAbsolute NIneでは体力が持たないのでは、という不安がある。
文香もそこに不安を覚えて、茜に特訓してもらっているのだろう。
ＬＩＶＥバトルは、文香と奏二人が並んで同時に踊ってどちらがより観客にアピールできるか競うという特殊なシステムになっている。つまり、二人が同時に歌う事によって観客に見比べられるので、ダンスが見劣りする方がより不利になってしまう。
特に、二曲ともカッコいい曲であるという事は、その分だけダンスの切れが重要になってくる。それにこの曲のダンスは強弱がはっきりしている。ひたすら激しい踊りよりは、こういう風に強弱がはっきりしていた方が体力を消耗してしまうのだ。
「私たち二人のＬＩＶＥバトルの最後には相応しい曲だと思ったの。別に他意はないわ。さて、私が勝つか文香が勝つか。勝負は時の運ね。……さて、私もレッスン頑張りますか。」
―――そしてＬＩＶＥバトル当日。
今大人気のクローネ同士のＬＩＶＥバトルという事で、客の入りは上々である。まずは、フレデリカと塩見周子同士とのＬＩＶＥバトルが行われた後、奏と文香のＬＩＶＥバトルが開始される。
フレデリカと周子は文香ほどお互いの関係にこだわりを持っていない、二人ともあっけらかんとした性格である。別段勝っても負けても人間関係がこじれるとかそんな事はないだろう。
問題は、文香の方である。
いかに参加を承諾したと言っても、入ってくる客を満足させるだけのクオリティを出せるかどうか。本人の気が進まない状態では、万全の体制で高いクオリティを発揮できるのは難しい。
アイドルのメンタルとはそれほど重要なのである。
「……文香。」
楽屋の片隅で静かに本を読んでいる文香に対して、話しかけてくる人物がいる。それは衣装を身に纏った速水奏である。
呼びかけてくる奏に対して、文香は静かに顔を上げた。そこにあったのは毅然とした表情だった。
「文香。私と戦う『覚悟』は出来たかしら。」
「はい。奏さん。私は……奏さんと戦いたいと思います。
避ける事なく、真正面から。」
その文香の凛とした表情を見て、奏は満足そうに微笑む。
「いい顔ね文香。私が見たかったのは貴女のそういう表情なの。それじゃ、正々堂々真正面からの勝負と行きましょう。」
そして、ついに文香と奏のＬＩＶＥバトルが始まった。
それはまさしく武器を使わない真剣勝負そのものである。
ＬＩＶＥバトルでは、八百長やアピールのために奇抜なパフォーマンスをするアイドルもいると聞くが、この二人の間ではそんな物は必要ない。正々堂々の真剣勝負である。
初めは、お互いの持ち曲である「Bright Blue」と「Hotel Moonside」である。
それぞれの衣装に身を包み、それぞれの持ち歌を肩を並べて歌う彼女たち。
お互いにお互いの曲を研究しあった彼女たちは、それぞれの歌をよく歌い切れていると言えた。
特に、奏の曲は文香の曲とは全く異なるEDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)でダンスもそれなりに激しいが、文香はそれでも負けずと奏に食い下がり、見事に踊りきる。
―――やるわね。文香。
奏は、口元に思わず笑みを浮かべる。
これは勝利の笑みではない。文香がそれだけ真剣にこちらにぶつかってきてくれる事が嬉しいのだ。
そして、当然の事ながら、これは「Bright Blue」は文香が勝利し、「Hotel Moonside」では奏が勝利する。逆に言えば、ここで自分の持ち歌で落とすような事があっては、状況が大きく不利になってしまう。
だが、今のところ、この先はどうなるかは分からない。そして、問題は次からである。
『生存本能ヴァルキュリア』
文香も以前のイベントで歌ったばかりの曲であり、奏は歌った事はないが、彼女自身のその器用さを生かして短期間で覚えた曲である。
ヴァルキュリアを歌うべく、文香は通常の衣装から更衣室でヴァルキュリア用の軍服へと着替える。軍服に着替えると、やはり気持ちが引き締まる物。
文香は表情を改めて更衣室から出ようとすると、ちょうど同じように、軍服姿の奏に出くわす。これは、ヴァルキュリア用に、奏のために作ってもらった軍服である。
元々、凛々しい所のある奏がヴァルキュリア用の軍服を纏った姿は、まさしく男装の麗人と言わんばかりの姿である。それは、女性である文香が思わず見惚れてしまうほどの宝塚を連想させる凛々しさとカッコよさだ。
これで、女性人気が出ない方がどうかしていると言っても過言ではない。
「くす。軍服姿の文香は近くで初めてみたけれど……やっぱり凛々しい文香は新鮮ね。人気が出るのも分かる気がするわ。」
「奏さんも。奏さんの軍服姿は……女性にとても人気が出そうな気がします。」
その言葉と同時に、二人はお互い真剣な目つきでお互いを見つめ合いかがら言葉を放つ。
「けど―――。」
「ええ―――。」
「「負けませんから。」」
その言葉に、くすくす、とお互いは二人で笑いあった。
そして、凛とした迷いのない表情で、静かに文香は奏の瞳を見据えた。
決意に満ちた迷いない表情。その顔を、美しい、と奏はそう思ってしまった。
だが、それで大人しく負けてやるほど、奏は素直ではない。
「そう。来るのね。鷺沢文香。いいわ。貴女の本気、私に見せてみなさい。」
その言葉に、凛々しい表情のまま文香は言葉を返す。
「―――行きます。奏さん。いいえ、速水奏さん。」
「―――来なさい。鷺沢文香。貴女の実力を見せてみなさい。この私、速水奏にね。」
そして、生存本能ヴァルキュリアのＬＩＶＥバトルが始まった。
だが、そこで文香には一つの誤算があった。
それは、初見のインパクトである。
何度もメディアに大々的に報道されている文香の軍服姿に対して、奏の軍服姿は今回が初登場である。そして、そんな軍服姿の凛々しい彼女を見て、彼女の熱狂的な女性ファンたちが騒がないはずはなかった。
凄まじい勢いで飛び交う黄色い歓声。そして、それに比例するように奏のポイントはぐんぐんと上がっていく。
さらに、文香にはもう一つ誤算があった。それは疲労である。
いくら茜の特訓で体力を鍛えたからと言っても、元々体力がまるでない文香が長時間踊るには無理があるのだ。
「はあ……。はあ……。」
横から見ても、文香の疲労は色濃い。このままダンスの切れが悪くなっていっては文香の敗北は免れないだろう。必死になって奏に食らいついている文香の心に、敗北感が支配する。
やっぱり……どうせ私なんか……。
そんな敗北感に打ちのめされて、顔を俯きかけた瞬間、ふと横の奏の声が聞こえたような気がした。
ふと隣の奏を見ると、強い視線を横目で文香に送っていた。
―――歌いなさい！ 鷺沢文香！
奏の強い視線は、文香にそう訴えかけていた。その奏の視線に、文香はぎり、と歯を食いしばる。
自分が自分自身に失望するのはいい。けれど、奏さんだけには失望されたくはない！
必死になって奏のダンスに食い下がっていく文香は、同時に懸命にその頭脳を働かせる。自分の優位な点、不利な点、そしてそれらを埋め得る戦略は何か。
ダンスの中で文香は懸命に考え―――そして結論を出した。
そうだ！ ダンスでは私は到底奏さんには敵わない。ならば、ビジュアルと歌で勝負をかける！
正直、文香自身には、自分自身のビジュアルになんて欠片も自信はない。
けれど、皆が褒めてくれるのならば、それを武器に奏さんに立ち向かう！
自信なんてまるでない。皆がいうような取柄なんて私にはないかもしれない。
けれど。
それでも。
私は―――！
きっ、と文香は俯きかけた顔を半ば無理矢理上げると、強い視線を真正面に向ける。
そしてちょうど運よく、そんな文香の顔をカメラが映し出していたのだ。
真正面から大画面で映し出された凛とした、強い視線を込めた碧い瞳の文香の表情。それが大画面に映った瞬間、会場から歓声が響き渡った。
そして、奏に偏りかけていたポイントが一気に文香へも集まりだし、彼女たちのポイントは拮抗する。
それを見て、にやり、と奏は口元を歪めて笑みを浮かべた。
それでこそ文香。それでこそ私が認めた女性。
そうでなければ―――面白くない！
奏の歌とダンスにもさらに熱が入り、気力を取り戻した文香もその奏のダンスへと追いすがる。
二人の全力を出しているそのダンスは、傍目には完全にシンクロし、お互いを補い合うユニットにも見えた。その二人の熱い競い合いに、ステージはさらに盛り上がり熱狂する。
そして、曲が終わった時、僅かながらも文香の方がポイントを上回っていた。
これは、やはりＬＩＶＥには男性の方が多く、その分のポイントが流れ込んだのも大きいだろう。
その結果を見た文香は汗を流しマイクを持ちながら呆然とする。
「私が……奏さんに……勝った……？」
「おめでとう文香。それが貴女の実力よ。貴女は自分に才能や実力なんてないって言っていたけどこの歓声が聞こえる？ これは、貴女への歓声なのよ。」
そんな風に、息を切らして汗だくの奏は、文香に対して手を差し伸べる。
その手に、自らの手を差し出しながら、文香は小さく首を振る。
「いいえ。これは私だけの歓声ではありません。
これは、私と奏さんとで作り出した物です。」
「そう、そうね。さあ、最後の曲、頑張りましょう！」
そして、次の最後のAbsolute NIne。
その曲で文香はあっさりと負けてしまった。元々、すでに体力はあの地点で限界だったのだ。
そこから残った体力を振り絞った上で、さらに曲をやるとなれば、これは順当な結果だと言えた。だが、文香の心には惨めな敗北感など欠片もなかった。
あったのは幸福感と満足感。
今だかつて、読書以外でこんな感情を味わったことなど彼女にはなかった。
最後の曲では、大きな差をつけられての文香の敗北だったが、疲労の色濃い彼女の表情には、爽やかな笑みが浮かんでいた。
―――そして、ＬＩＶＥバトルは終了した。
ライブ終了の後、シャワーを浴びて、ライブのロゴが入ったＴシャツと短パンというラフなスタイルで奏と文香は、すでに誰もいなくなった会場をステージに座り込みながら話をしていた。
「結果は、引き分け、ね。」
「いいえ、最後のAbsolute NIneで私は大きく差をつけられてしまいました。
私の負けです。やはり、私はもっと体力をつける必要があるようです。」
奏と文香の勝負は、結局引き分けに終わるカタチになった。
もっとも、ライブは盛り上がったし、ライブ後のアンケートも高い結果に終わったらしいし、結果としては成功だったと言えるだろう。
「引き分けにしては、文香はすっきりとしたいい表情をしてるわね。私も、文香があそこまで頑張るとは思ってなかったわ。でもまあ、私が見込んだ女性だもの。それも当然よね。」
「はい。ＬＩＶＥバトルで、真正面から奏さんとぶつかり合って、私は奏さんと心が通じ合えた気がします。私の独りよがりな思い込みかもしれませんが。」
その文香の言葉に、奏は口元に笑みを浮かべながらゆっくりと首を横に振る。
「いいえ。文香。私も……文香とより深く繋がれた気がするわ。
それは、避けているばかりじゃ感じ取れない物よ。
ぶつかり合う事によって、より深まる絆というのもあるのよ。」
その奏の言葉に、文香は静かに頷く。
「はい。私もそう思います。実際の悲惨な戦いとは違い、ＬＩＶＥバトルとは―――そこから生まれる絆というのもあるのですね。」
「そうね。そして、それは決して……文香？」
ふと、奏は肩に唐突な重みを感じて横を見る。そこには、奏の肩に頭を預けて、安らかな寝息を立てている文香の姿があった。
完全に体力を使い果たした状態の彼女なら、これも当然と言えるかもしれない。その安らかな寝顔の文香の顔を見て、奏は優しく微笑んで呟いた。
「―――お休みなさい。文香。また明日から頑張りましょう。」
そのしばらく後、今回のＬＩＶＥバトルによりクローネの評判はさらに上がり、様々なタイアップなども行われていた。とあるビルの大型ディスプレイには、速水奏と高垣楓が二人揃って歌を歌っているシーンが映し出されている。
二人の新しいユニット『ミステリアスアイズ』
神秘的でミステリアスな風貌を持ち、息の合った曲やダンスを繰り出していく二人のユニットは非常に好評だった。これも、ＬＩＶＥバトルで戦いあった事をきっかけにして出来た新しいユニットである。
その大きな画面に映し出されている二人の姿を見上げながら、奏とありすとの買い物のために待ち合わせをしている文香はふと思う。
アイドルの世界は戦場です。
どんなに光輝いていても、どんなに仲のいい親友同士でも。
戦わなければいけない時もある。仲違いすることも喧嘩する事もある。
だけどそれでも―――それでも共に歩いていけたら、それはとても素晴らしい事だと、私はそう思うのです。
「あっ、文香待った？ごめんね。」
「文香さん、遅れて申し訳ありませんでした。
文香さんや奏さんと一緒とお買い物できるのが楽しみで眠れなくて……。」
「いいえ、奏さん、ありすちゃん。それほど待っていませんよ。
それでは、お買い物楽しみましょう。」
願わくば、この時間がずっと続きますように―――。
・あとがき
生存本能ヴァルキュリアの文香カッコいいヤッター！（挨拶）
どうもこんにちは。零です。
待ち望んでいたカッコいい文香がイベントで見れたので満足しています。
個人的には、こういうカッコいい文香がもっと出てくれたら嬉しいのですが。
ここまで読んでいただいてどうもありがとうございます。
少しでも楽しんでいただければ幸いです。
また次のイベントなどでお会い出来たらよろしくお願いいたします。
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